初めて救急車に乗ったのは,東京の私立学校で教職について間もない頃であった。
中学の男子生徒二人が昼休みの休憩時間中に,ベランダに通じているドアを開け閉めして追いかけっこをしていた。追いかけられている生徒が閉めたドアの窓の部分に勢い余って手をついたために,追いかけていたJ君の腕が窓を突き破った。厚さ6ミリの窓であったと記憶しているが,ガラスの破片で腕が裂けた状態になっていた。すぐに救急車が呼ばれた。J君が塾生(=寮生)ということで,塾舎監のわたしが同伴することになった。
病院に到着して手術に立ち会った。30針ほど縫う大けがであったが,彼は「痛い!」という言葉を一度も発しなかった。ずいぶん我慢強い少年だと驚いた。わたしのほうは,縦にえぐれている腕を見て気持ちが悪くなり,その後,丸1日食事がのどを通らなかったことをいまだに覚えている。
先日,J君と電話で話す機会があり,その際に彼の名前をフルネームで告げると,「覚えていてくれたのですか。」と驚いていた。そして腕のけがのことについて触れると,彼も,中学時代のこの出来事のことをよく覚えていて,今も負傷の痕が残っているとのことであった。
うれしかったのは,J君は教職の道についており,生徒たちの教育に携わっているということであった。中学の頃の負けん気の強い気持ちを忘れずに,熱心に教育に打ち込んでいる姿が電話の声から想像できた。
二度目に救急車に乗ったのは,本校で教職員のソフトボール大会が行われたときであった。当時,考査期間中の午後,教職員が2チームに分かれてソフトボールの試合を行うことがあった。
わたしが子どもの頃は,スポーツと言えばソフトボールで,夏などは海水パンツ1枚で試合をしたものであった。途中暑くなると,海に飛び込んで体を冷やしてから,試合を再開した。グラブなしで試合をすることもあったためか,素手でボールをつかむのが得意であったような記憶がある。このような次第で,ソフトボールは自分の得意なスポーツであった。特に守備に関しては自信を持っていた。サードとショートを守ることが多かったが,一度打順がまわると,次に打者が打ったボールがどこへ飛んでくるのか,おおよそ見当がついた。