季節の変わりめ。服装も夏服から冬服へ移行するこの時期に
玄関前では登校指導が行われています。
2009年9月アーカイブ9月26日(土)、松山市総合コミュニティセンターで開かれた 「集まれ!理科大好きっ子~タンパク質って、すごくない!?」というセミナーに 中2生8名が参加しました。
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後期補習,校内模試,そして第2回実力考査が終わり,2学期の始業式を迎えました。本来は体育館で始業式を行うことになっているのですが,新型インフルエンザのこれ以上の罹患を防ぐため,放送で挨拶をすることにしました。 省略 (新型インフルエンザの現状と対策についての説明) さて,今日の始業式では,学ぶ機会に恵まれた者は,世界に対する責任を自覚しなければならないということと,恵まれていることに感謝の気持ちを持たなければならないということについて触れてみたいと思います。 男女共学になってから,自宅生の数は寮生の数を上回っています。男子校だった初期の時代も,自宅生が多かったのですが,およそ30年前の24期生のときから寮生の数が自宅生を上回りました。 部屋が不足したために,教員の控え室まで改造して生徒の部屋にしたものです。 そして,高Ⅲになると,全員寮を出て下宿生活を送らねばならない時代がありました。わたしは,担任をしていて,高2までは寮務部,生徒たちが高3になると生徒部という繰り返しでした。当時,下宿生も苦労したでしょうが,下宿指導は本当に大変でした。 下宿が市内に点在していたため,クラス担任と生徒部の教員は,車や単車でしばしば下宿訪問をしたものです。 土曜日の夜に訪問すると,面談したい下宿生が一人もいない下宿もありました。夜の町へと出かけていたのであります。 翌日事情を聞くと,「ネオンがぼくを呼んでいるんです。」と答えました。この生徒は今では立派な社会人となり,活躍しています。 欠席をしている生徒を見舞うために,車で出かけることもしばしばでした。風邪だということで,見舞いがてら訪問をしてみると,確かに布団に横になっていました。下宿訪問のときには,わたしはいつも体温計を所持していましたので,熱を計るよう指示をしておいて,部屋の中を観察していました。渡された体温計を見てびっくりしました。40度を超えているではありませんか。 これは大変なことだと思って本人のほうを見ると,それほど苦しい様子でもありません。頭に手を当ててみると,平熱です。当時,わたしは前任校での舎監の経験から,頭に手を当てて,何度何分まで,正確に言い当てることができる特技を持っていましたので,おかしいなと思って,本人の顔を見ると笑っているのです。体温計を脇の下に入れて,こすったのです。当然のことですが,すぐに車に乗せて学校へ直行しました。そんなことを繰り返すうち,わたしの車は,いつしか護送車と呼ばれるようになりました。 [上記の下宿訪問については「教務のひとりごと(2)」でも紹介しています。] その後,特に寮生のご父母から,高3まで安心して寮生活を送れるようにとの強い要望があり,現在のドミニコ寮が建設されました。 今や立派な高Ⅲ寮が出来て,寮を出る心配もなく,安心して学校生活を送ることができるようになりました。 恵まれた環境にいると,それに慣れっこになってしまって,過去の先輩方の苦労は忘れ去られてしまうものです。自分たちが,先輩方の積み重ねられた苦労の上にいるのだということを時に思い出し,自分たちが非常に恵まれた環境にいることを感謝しなければならないと思います。 中1生は、本日の6、7時間目にロブバンクが行われました。
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2週間前の「チュータのひとりごと第261回」の続きです。 ◆ 高校入試を迎えた年は別であったが,放課後は,山に登って燃料の「松かさ」とウサギのえさの野草を集めて仲間と野山を駆け巡ったものである。 世の中が物に不自由する時代であったため,勉強どころではなく,家族の手伝いを優先するのが,ごく当たり前の時代であった。 友人の中には,能力があるにもかかわらず,家族のために高校に行くことをあきらめ,集団就職をして,県外に出かけた友人もいた。 わたしの場合は,母親が3人の子どもたちに,「角帽」をかぶらせるのだと懸命に働いてくれたおかげで,大学に行くことができた。もちろん,わたしは高校時代から長期休暇中に車の運転のアルバイトをしていた。16歳で自動車免許を取得したので,そのようなことができたのである。そのお金で,参考書や机などを購入したことを覚えている。「松山丸三」という会社が三番町にあるが,ここの初代社長がわたしのことをとても気に入って,長期休暇中,いつ会社に行っても,わたしのために車(マツダのミゼット)を1台用意して,その日からアルバイトをさせてくださった。配達先は今でも記憶にある。陰日なたなく働いているということで,社長から,ボーナスまでいただいたことに,今でも感謝の気持ちを持っている。 少し,横道にそれてしまったが,学ぶ機会に恵まれない人間が多かった時代を日本は経験しているのである。 現在では,物が豊富になり,一部の人にしか手に入らなかった牛乳やバナナは,簡単に入手できる。風呂も一戸建ての家であれば,浴室があり,その上,自動で風呂を沸かしてくれる。中には,「お風呂が沸きました。」と女性の声でアナウンスしてくれるものさえある。燃料を求めて野山を走り回る必要もない。さらに,アルバイトなどは学習の妨げになるということで禁じられている。 時代は大きく変わり,豊かな恵まれた日本になった。 それでは,現在の本校の生徒の場合はどうであろうか。食事の内容と質は,家庭か寮かで多少の違いはあるが,栄養の点では全く問題がないし,経済的な点においても恵まれた家庭が多い。その気さえあれば,学習や部活などの諸活動に心置きなく取り組むことができる。まさしく,学ぶ機会に恵まれた者の集まりである。武田理事長の言葉どおり,学ぶ機会に恵まれた者は,世界に対する責任を自覚しなければならないのである。この言葉は,「われらの信条」の中の言葉を用いると,「愛と光の使徒たらんこと!」ということだとわたしは考えている。 世界に対して責任を自覚する「愛と光の使徒」こそ,われわれ人間が究極の目標として掲げるべきものではないか。 「聖ドミニコ学園」訪問を快く引き受けてくださった理事長,小学校,中学・高等学校の各校長にお礼を申し上げて,今回の「チュータのひとりごと」を終えたい。 同窓生の皆様へ この聖ドミニコ学園訪問の原稿を次回の「同窓会だより」に掲載させていただく予定です。今回の「チュータのひとりごと」と重複することになりますが,ご了承ください
今日の3時間目の体育授業を紹介します。
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新型インフルエンザで学年閉鎖になっていた中1も、昨日から登校しています。
中1も帰って来ましたの続きを読む
理事長の武田教子シスターが学校案内の冒頭で述べている言葉の中で,次の部分に目が留まった。 ―― 多くの発展途上国で子どもの命が戦争,飢え,抑圧の犠牲になっています。この中で,健康に成長することができ,学ぶ機会に恵まれた者は,世界に対する責任を自覚しなければなりません。 ―― わたしは帰りの飛行機の中で,自分の幼い頃について思いをめぐらした。 わたしが生まれたのは,昭和22年である。戦時中ほどではないにしても,物のない時代であったことに変わりはない。したがって,わたしの幼年時代はまさしく日本は発展途上国であった。 この時代の牛乳は病人の飲み物であり,芋粥や白菜の漬物が常食であった。自分も病気になったらあの牛乳が飲めるのになあと思った記憶がある。弁当が米だけのご飯になったのは,中学の後半になってからである。 風呂も自宅にないので,「もらい湯」であった。俗に言う「五右衛門風呂」に入ることが多かったが,浮いている底板をバランスをとりながら踏み沈めなければならないため,体重のない子どもにとっては,一仕事であった。しかも,バランスを崩すと熱い鉄の釜が直接肌に当たるため,何度も「あちっ!」と大きな声を出したものである。 まだ,「五右衛門風呂」はよかった。あるとき,どうしてそのような状況になったのか記憶にないのだが,ドラム缶の風呂に入ることになった。庭に無造作に置かれたドラム缶を下から直火で沸かしていた。入浴しようとドラム缶のふちに手をかけたとたん,「あちっ!」,底板がうまく踏み込めないために「あちっ!」,やっとかがんだと思ったとたん,お尻が缶の側面に当たってあちっ!」,あわてて,お尻を引っ込めたときに,今度はかがめている足が缶の側面に当たって「あちっ!」,こちらは真剣そのものであるのに,周りで見ていた大人は盛んに笑っていた。以後,わたしはどんなことがあっても,このドラム缶の風呂にだけは入らなかった。
夏休みの間に情報実習室が進化しました。
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