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チュータ日誌

チュータのひとりごと 第261回(聖ドミニコ学園訪問(2))

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理事長の武田教子シスターが学校案内の冒頭で述べている言葉の中で,次の部分に目が留まった。

 

―― 多くの発展途上国で子どもの命が戦争,飢え,抑圧の犠牲になっています。この中で,健康に成長することができ,学ぶ機会に恵まれた者は,世界に対する責任を自覚しなければなりません。 ――

 

わたしは帰りの飛行機の中で,自分の幼い頃について思いをめぐらした。

わたしが生まれたのは,昭和22年である。戦時中ほどではないにしても,物のない時代であったことに変わりはない。したがって,わたしの幼年時代はまさしく日本は発展途上国であった。

この時代の牛乳は病人の飲み物であり,芋粥や白菜の漬物が常食であった。自分も病気になったらあの牛乳が飲めるのになあと思った記憶がある。弁当が米だけのご飯になったのは,中学の後半になってからである。

風呂も自宅にないので,「もらい湯」であった。俗に言う「五右衛門風呂」に入ることが多かったが,浮いている底板をバランスをとりながら踏み沈めなければならないため,体重のない子どもにとっては,一仕事であった。しかも,バランスを崩すと熱い鉄の釜が直接肌に当たるため,何度も「あちっ!」と大きな声を出したものである。

まだ,「五右衛門風呂」はよかった。あるとき,どうしてそのような状況になったのか記憶にないのだが,ドラム缶の風呂に入ることになった。庭に無造作に置かれたドラム缶を下から直火で沸かしていた。入浴しようとドラム缶のふちに手をかけたとたん,「あちっ!」,底板がうまく踏み込めないために「あちっ!」,やっとかがんだと思ったとたん,お尻が缶の側面に当たってあちっ!」,あわてて,お尻を引っ込めたときに,今度はかがめている足が缶の側面に当たって「あちっ!」,こちらは真剣そのものであるのに,周りで見ていた大人は盛んに笑っていた。以後,わたしはどんなことがあっても,このドラム缶の風呂にだけは入らなかった。


2013年1月

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