それでは,次に「愛と光の使徒」について考えてみましょう。
愛はどこで感じるものでしょうか。そうです。心で感じるものであります。つまり,心の教育で徳性を養うと言えるでしょう。
それでは光と言えば,どこを指すでしょう。そうです。頭を指しますね。別に頭が光り輝いているからではありません。
頭は知性を磨くところということになります。
このように考えてくると,愛光学園は,徳性と知性の学園ということになるでしょう。そのように考えると本校を理解しやすくなると思います。
しかも愛と光の人ではなく,「愛と光の使徒」ですから,知性と徳性が自分だけで完結してはいけません。磨かれた知性と徳性を世の中に広く伝える義務を持つのが使徒ということになるでしょう。さらに付け加えれば,使徒とは,聖カタリナの言うCharity for Your Neighbors隣人愛,そして,アインシュタインの言うWe exist for our fellow-men. 人間は他人のために存在する。つまり,利他の精神,Give and Give の精神を持った教養人ということです。つまり常に自分の周りの他人の存在を意識し,さらに,人様のためにということを考えることができる人間が使徒であろうと思います。
それでは,なぜ,そのような他人に対する心遣いが必要かと言いますと,利他的な心を少しずつでも使えば,人間の心は次第に入れ替わってくるからです。そして,小さな親切でなら,誰でも人を助けることにチャレンジできるはずです。人を助ける心を涵養すると,心が晴れ,勇んできます。人間は人を助けることに生きがいを感じるように神様から創造されているのではないでしょうか。このような点から,本校では他人のためにということを考えることのできる人間を育てたいと考えています。
さて,この世界的教養人という教育論がどこに端を発しているのかということを少し詳しく述べてみたいと思います。
田中忠夫初代校長が雪の降る夜に一晩で書き上げたと言われている本校の建学の精神,「われらの信条」を紹介しましょう。
学校案内の見開きのページをごらんください。
朗読いたします。
「われらは世界的教養人としての深い知性と高い徳性を磨かんとする,学徒の集まりである。学問に対する情熱と道義に対する渇望とはわれらの生命である。
幾千年にわたる,人類苦心の業績――この高貴なるものによせる愛情と尊敬,これを学びとるための勤勉と誠実,これを伝え,これに寄与するための忍耐と勇気とは,われら学徒の本分である。
かくて,高貴なる普遍的教養を体得して,世界に愛と光を増し加えんこと,これがわれらの願いである。
輝く知性と曇りなき愛 愛と光の使徒たらんこと! これがわれらの信条である。」
このわれらの信条の最も大切な部分は,冒頭の文,「われらは世界的教養人としての深い知性と高い徳性を磨かんとする,学徒の集まりである。」と結びの文,「輝く知性と曇りなき愛 愛と光の使徒たらんこと! これがわれらの信条である。」ではないかとわたしは考えています。
つまり,学園のあらゆる教育活動,学習,行事,部活動などの進む先に世界的教養人,愛と光の使徒が見えてなければならないのです。