明日(3月1日)は愛光高等学校卒業式がとりおこなわれます。
2011年2月アーカイブ2月12日(土)に中学部マラソン大会を実施する予定であったが,中予地区に暴風雪警報が発表されたため,休校となり,大会は翌週の火曜日に延期された。その結果,火曜日の体育の時間とLHRの時間を利用して,中学学年のそれぞれの大会を行うことになった。 ところが,2月15日の火曜日は,前日月曜日の降雨のため,またしても延期されることになり,2月23日,24日,25日の6時限目に各学年で大会を実施することになった。3学年の開会式に出て,挨拶をしようと思ったのだが,中1の英語授業のため中3の開会式には参加できないことになってしまった。 今回は,このマラソン大会の開会の挨拶を紹介したい。 ―― 2月6日の日曜日,愛媛マラソンで,40期卒業生の城武雅さんが2時間19分14秒という好タイムで優勝しました。城武先輩は高知の出身で,中・高時代を愛光学園の寮と学校で過ごしました。卒業後,東京大学に進学し,卒業して就職した後も,マラソンを続け,念願かなって,このたび,みごと優勝の栄冠に輝いたのです。彼の優勝を皆さんと共に喜びたいと思います。 さて,一昨年のマラソン大会でマラソンの歴史について,また昨年の大会ではマラソンの正式距離が,どうして42.195キロとなったかという話をしましたので,今年はマラソンに女子がどのようにして参加するようになったかという話をしてみましょう。 第1回のアテネ五輪の当時、陸上競技は男子のみで行われており、マラソンも例外ではありませんでした。ただし、当日隠れて同じコースを走ったメルポメネという女性がおり、史上初の女子マラソンランナーとされているそうです。その後,女子の陸上競技への参加が認められるようになっても、「女性がマラソンを走ることは困難」という見解が広く信じられ、オリンピックをはじめとするマラソン大会も男子のみで開催されていたようです。ただ,年々,非公式の女性参加者が増えたため、1972年に女子の参加が認められました。オリンピックで女子のマラソンが正式に採用されたのは、1984年のロサンゼルスオリンピックからです。 皆さんはこの日のために,体育の授業や,放課後にそれぞれが練習を積み重ねてきたことと思います。今日は,その成果を十分に発揮してくれることを期待しています。 マラソン大会は,その目的の一つ,「最後まで走りとおすこと」に意味があるのです。頑張ってください。 ――
今日は中2のマラソン大会でした。
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昨日も紹介しましたが、中学部のマラソン大会は、昨日(中1)・本日(中3)・明日(中2)の3日間で実施します。
マラソン大会(中3)+芸術鑑賞(中2)の続きを読む
本日の6時間目、延期になっていたマラソン大会が行われました。
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本校の生徒(希望者)が、冬休み中に台湾・道明中学・高等学校を訪問したことは以前にお伝えしたと思いますが・・・
松山市長へ報告に行きましたの続きを読む
松山に帰るきっかけは,高校で外進生をとるという話が決まり,英語の教員を一人採用することになった。当時,高校時代の恩師,清水襄先生が英語科の教員として本校に勤務されており,先生から松山に帰ってくるようにというお誘いを受けた。当然,この話がなければ,本校に奉職することにはならなかったであろう。その点から言えば,最も恩義を受けている人物は清水襄先生ということになるかもしれない。 教師になった直後,生徒の父親の一人に大きな影響を受けた。当時の学園は,家庭的な雰囲気があり,先生方がときどき生徒の家庭に招待されて食事をご馳走になることがあった。その中に,国内外で活躍している父親がいた。この父親の話から,若いわたしは大いに刺激を受けた。このことがきっかけで,海外に出なければ世の中のことは分からないという考えを持つようになった。そして,当時アラスカに学園の分校があったので,アラスカ行きを志願したが,既婚者であることが条件であったため,あきらめざるを得なかった。 この父親には,もう一つお礼を言わなければならないことがある。それはオランダのフィリップス社のシェーバーである。わたしのひげは「袋ひげ」といって,理容師泣かせのひげである。かみそりで剃ると,ひげの根元が袋状になっているため,この袋が切れ,顔中が血だらけになるのである。この父親がオランダに仕事で出かけ,シェーバーをお土産として買ってきてくださった。どんな切れ味だろうと思って,おそるおそるシェーバーを顔に当ててびっくりした。血が出ないのである。しかも,ひげを剃った後,ひりひりもしない。8年間の苦痛から解放された瞬間であった。わたしはこの時から,ひげ剃りはフィリップスと決めている。先日,この父親がお亡くなりになったという悲報を受け取り,神奈川県にあるご自宅にお伺いし,わたしの人生に大きな影響を与えてくださったことと,8年間のひげ剃りの苦痛から解放してくださったことに対して,仏前でお礼を申し上げた。 一人の人間が,一生のうちに出会う人間はそれほど多くはない。そして,誰と出会うかで人生が大きく変わるということは,ある程度の人生を送った人なら誰でも気付いていることであろう。 誰と出会うか,それはその人の持つ徳分で決まるのではないか。言葉を変えれば,世界的教養人としての深い知性と高い徳性によって決まると言ってよいのではないだろうか。知性と徳性を磨くことによって,出会う人も異なってくるのではないかと申し上げて,今回のひとりごとを締めくくることにする。 今日の4時間目、中3はロブバンクで、 本校31期で現在内閣官房参事官補佐の中村真二さんにお越しいただきました。
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今日は参観日でした。
参観日(中1:百人一首かるた大会)の続きを読む
今日に延期されていた中学部マラソン大会は、昨夜の雨でグランドコンデションが悪いため、さらに延期になりました。後日時間を見つけて実施する予定です。
「ある視覚障害者の生き方」の続きを読む
弁論大会や書道の大会にも出場させてもらった。放送部にも所属していた。この放送部の活動が高校生活における部活動へと続くことになった。 高校生になって,最初の実力考査の数学で,興居島中学では習っていなかった2次方程式の問題が出題された。過去の「ひとりごと」でも触れたが,生涯でたった1回の37点という赤点(欠点)を取ってしまったことが鮮明な記憶として残っている。努力を重ねて人並みの点数が取れるようになる途中で,年輩の女性の数学教師から,「よく頑張っているね。」と声をかけられたことが励みになった。 高校時代は放送部に所属し,アナウンスを担当した。愛媛県の放送コンテストのアナウンス部門で高2では2位,高3で優勝し,2年続けて全国大会に出場させてもらった。 部活動の顧問は物理担当の先生であった。難病を患っていらっしゃるとお聞きしたが,授業はいつも汗を流しながら,真剣勝負というような授業であった。今のわたしの授業のどこかに,このときの先生の情熱から影響を受けたものがあるように思う。 教師になって一番の思い出は,現在のわたしの教育方針に大きく影響を与えている「全人教育論」を実践できたことである。しかも,教師として,「全人教育論」の提唱者,小原國芳先生のもとで,共に教育に携わることができたことは,人生の最大の思い出である。生徒に向かって講話をされるとき,眠っている生徒は一人もいなかった。それほど,人を魅了するほどの講話であったのだ。今も先生の声は,自分の心の中で響いている。 また,非常に幸運だったのは,当時,勤務していた中学部の校長が学園における「全人教育論」の最高の実践者であるということであった。この校長に中学部で4年間,高校部で4年間鍛えられた。この8年間がなければ,今のわたしはないと言っても過言ではあるまい。 こうして,故郷松山に帰って,本校の建学の精神,「われらの信条」を起草した田中忠夫初代校長と出会うことになった。少しオーバーな表現になるかもしれないが,運命的な出会いであったとわたしは感謝している。
今週の土曜日(12日)は中学部マラソン大会です。
マラソン大会近づく(中学部)の続きを読む
昨日、クラス対抗のドッヂボールが行われました。
ドッヂボール(中2)の続きを読む
中1は月曜日にCLE(クリスチャン・ライフ・エデュケーション)の授業があります。
CLEの授業(中1)の続きを読む
「教育とは卒業後の思い出なり」という名言があるが,人には誰でも,それぞれの小学校,中学校,高校を通して,一人ひとりの特別な思い出があるだろうし,それは,数え上げるときりがないのかもしれない。ただ,小,中,高の児童,生徒の生活で,思い出に残る人は誰か,人生に対して影響を受けた人物は誰かと問われると,急にその人の名が頭に浮かばないかもしれない。しかし,わたしの場合は,すぐに数名の恩師の名が頭の中に浮かんでくるのである。 今回の「ひとりごと」では,わたしが児童,生徒,そして教職について後に影響を受けた人物を紹介したい。 わたしは,小,中,高時代を瀬戸内海に浮かぶ忽那七島の一つ,興居島(ごごしま)で過ごした。それで,興居島が離島だという意識はわたしにはなかったが,小・中に赴任した先生方は離島勤務の苦労を味わったのではないだろうか。 島にある由良小学校1年の担任の先生は若い女性の先生であった。本を読むことを習慣づけてくれた先生である。幾冊の本を読んだかを,友人と競い合ったものである。おかげで,小学校の低学年の時期に読書の習慣が身についた。小学3年生の担任は年輩の男性の先生であった。担任のお手伝いをする中で,教員になりたいという気持ちになったのはこの時である。 4年生の担任は若い男性で,タバコが大好きな先生であった。当時は教員が教室で吸ってもよかったように記憶しているが,とにかくヘビースモーカーであった。煙のにおいがいやだったので,大人になってもタバコは吸わないと決めたのはこの頃である。 5,6年生の担任は若い熱血教師で,いろいろなことに挑戦させてくれた。市内の中学入試にも挑戦させてもらった。興居島に塾などあるわけがなく,受験勉強は学校で,この担任の先生が熱心に指導してくれた。入試結果から,算数や国語は十分に力を持っていたことが分かった。ただ,その他の科目は6年生の半年間で学んだこともあって,到底力は及ばなかった。しかし,チャレンジ精神を学んだのは,この担任からであった。 興居島中学で最も印象に残っている恩師は,女性の音楽の先生で,入学時,中1の担任でもあった。1学期早々,「中村君,君はブラスバンド部に入部しなさい。」という一言で,部活動が決まった。小学校低学年の頃,楽譜が読めないため,音楽の成績が非常に悪かったことを今でも記憶している。そのような状況であったので,音楽が大好きというわけではなかったが,担任の一言でブラスバンド部に入部することになった。楽器はアルトサックスで,古いこともあって,指でキーを押さえていても,空気が漏れるのには閉口した。卒業した先輩がタバコの煙をサックスの中に吹き込むと,抑えたキーのすべてから煙が漏れていた。当然,いい音は出なかったが,肺活量が大きくなった。当時息を一度吸ってから,3分間は息を止めておくことができたほどである。
今日は天気もよく、暖かいです。
中間考査 最終日です。の続きを読む
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