弁論大会や書道の大会にも出場させてもらった。放送部にも所属していた。この放送部の活動が高校生活における部活動へと続くことになった。
高校生になって,最初の実力考査の数学で,興居島中学では習っていなかった2次方程式の問題が出題された。過去の「ひとりごと」でも触れたが,生涯でたった1回の37点という赤点(欠点)を取ってしまったことが鮮明な記憶として残っている。努力を重ねて人並みの点数が取れるようになる途中で,年輩の女性の数学教師から,「よく頑張っているね。」と声をかけられたことが励みになった。
高校時代は放送部に所属し,アナウンスを担当した。愛媛県の放送コンテストのアナウンス部門で高2では2位,高3で優勝し,2年続けて全国大会に出場させてもらった。
部活動の顧問は物理担当の先生であった。難病を患っていらっしゃるとお聞きしたが,授業はいつも汗を流しながら,真剣勝負というような授業であった。今のわたしの授業のどこかに,このときの先生の情熱から影響を受けたものがあるように思う。
教師になって一番の思い出は,現在のわたしの教育方針に大きく影響を与えている「全人教育論」を実践できたことである。しかも,教師として,「全人教育論」の提唱者,小原國芳先生のもとで,共に教育に携わることができたことは,人生の最大の思い出である。生徒に向かって講話をされるとき,眠っている生徒は一人もいなかった。それほど,人を魅了するほどの講話であったのだ。今も先生の声は,自分の心の中で響いている。
また,非常に幸運だったのは,当時,勤務していた中学部の校長が学園における「全人教育論」の最高の実践者であるということであった。この校長に中学部で4年間,高校部で4年間鍛えられた。この8年間がなければ,今のわたしはないと言っても過言ではあるまい。
こうして,故郷松山に帰って,本校の建学の精神,「われらの信条」を起草した田中忠夫初代校長と出会うことになった。少しオーバーな表現になるかもしれないが,運命的な出会いであったとわたしは感謝している。