これまでの「チュータのひとりごと」の中で触れたことがあるが,わたしの卒業した中学校は松山観光港のすぐ沖合にある忽那七島(くつなしちとう)の一つ,興居島(ごごしま)にある。当時,島には約5,000人が暮らしていて,由良小学校と泊小学校の二つの小学校があり,子どもたちは,中学生になると島のほぼ真ん中にある興居島中学へと進学した。
現在では,過疎化によって少子化が進み,興居島中学校に小学校と中学校が併設され,小・中一貫校の形をとっている。つまり,由良小学校と泊小学校が統合され,かつ中学校と併設されたのである。
わたしの友人の中に,島内で暮らしていて同窓会の世話を熱心にやってくださっている方がいる。このように中心になって世話をしてくれる人物がいなければ,同窓会を開催することは難しい。
この方が中心となって,中学卒業後50年の同窓会を開こうではないかという相談がまとまった。わたしは現職であるため,相談のメンバーから外していただいたようである。
自分が開催の委員になっていないため,何名参加するのかも全く分からないまま,当日を迎えた。
これまですべて松山市内で行われていたが,同窓会の開催地に初めて興居島が選ばれた。自分たちが50年前に学び遊んだ場所を訪問してみようという計画を立てたのである。さらに,興居島を1周できる道路ができているということで,車で島を周遊する計画も立てられていた。
フェリーで高浜港から10分,夏の海水浴シーズンにのみ寄港する船越に到着した。港から徒歩2分のところに興居島中学がある。土曜日であったために,学校は休みで,生徒は一人もいなかった。この日に,あらかじめ興居島中学校の教頭先生にグラウンドに入る許可を得ることがわたしの唯一の役割であった。さっそく,グラウンドに入り,なつかしい光景を楽しませてもらった後,全員で記念写真を撮影した。50年前は木造の建物であったため,校舎の外観は全く異なっていたが,グラウンドは少し狭くなっているだけで,50年前と変わらない。わたしはトイレ掃除で肥桶をかついだ記憶が最も鮮明に残っているので,野壺のあったところへ向かう踏み分け道があるかどうかを確かめた。残念ながら,そこはコンクリートの壁で固められており,踏み分け道の痕跡はなかった。
トイレ掃除は人間の心を磨くのに打ってつけの労作だと考えているが,当時の「肥桶かつぎ」のほうがさらに心を磨くことにつながったのではないかと,その情景を思い浮かべながら校門を出た。
その後,興居島を車で1周することになった。島は周囲が7里,つまり28キロメートルあるが,1周道路ができていることをわたしは知らなかった。島の民宿を経営している同級生の計らいで,2台の車に分乗し周遊した。くねくねと曲がる狭い道路を進んだが,これほど島が広いと感じたことはこれまでなかった。
周遊を終えて,御手洗(みたらい)にある海の家で親睦会となった。珍しい海の幸をいただきながら,40名近くの者が年齢を忘れ,一気に中学時代にもどった。呼び名も昔のままである。わたしは,「みっちょちゃん」とか「みちろうくん」と呼ばれることが多いが,自己紹介のとき,学校では「チュータ先生」と呼ばれていると紹介すると,笑いがおこった。チュータは「ネズミのチュータ」であると説明すると,皆,なるほどと納得しているような顔つきになったのは不思議である。
生徒やご父母からも,なぜ,チュータ先生と呼ばれているのかという質問をよく受ける。以前にも「ひとりごと」で触れたが,英語のtutor から来ているのだと勘違いされている方も多いようである。実は,ネズミのチュータから来ているのである。道明中学・高等学校の生徒に,わたしのニックネームの由来は,a very pretty mouse であってa ratではないと言うと笑いが起こったことを考えると,どうやらa ratに近いと考えられているのかもしれない。
夜も更けて浜辺には小さく打ち寄せる波の音と,途切れることのない楽しい会話の声だけが響いていたが,ついに終了の時間を迎えた。最終の船の出発時間が近づいたからである。誰かが,これが最後の同窓会になるかもしれないと言ったとたん,急に静かになった。誰もがそのようなことはないと思ってはいても,もしかしたら,そうなるかもしれないと思ったからではないか。最後の締めの挨拶を指名されたので,「また,みんなで会おうや。」と言って最後を締めくくった。
同窓会を開くたびに思うことであるが,昔の友のやさしい微笑みやパワーあふれる姿に励まされることが多い。1週間くらいその余韻に浸り,そこから新たなるやる気,そして新たなるチャレンジへの勇気をもらう。