愛光学園

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チュータのひとりごと

 卒寮式の挨拶を掲載いたします。

高3寮生の皆さん,卒寮おめでとうございます。

「同じ釜の飯を食う。」これが寮生活の最高の経験だとわたしは考えています。

わたしは,東京町田の玉川学園に英語科の教員として赴任しましたが,同時に,塾舎監を兼務しました。 塾舎監は,愛光では寮の舎監にあたります。その後4年間,生徒と一緒に寮生活を送りながら,昼だけではなく, 夜も学習指導や生活指導を行うという文字通り24時間,生徒と共同の生活をおくりました。また,寮生と一緒に,豚や羊の飼育, 畑の開墾など,現在では到底考えられないような貴重な体験をしました。この経験が今のわたしの教育理念の一つ,「師弟同行」 の原点になっていると言っても過言ではありません。

この寮生活で,毎日,生徒と朝食や夕食を共にしたのでありますが, 食事を共にしながら生徒と語り合うことの素晴らしさを味わったと考えています。

わたしが中1のクラス担任をしたときの思い出,「一杯のみそラーメン」の話をしたいと思います。

これは「チュータのひとりごと(第4回)」に掲載している文章をそのまま紹介するものです。

 

中学の担任をしていた頃の話である。ある日,担当学年の生徒の一人が横にやってきて,「先生, 相談があるんです。」と少し心配そうな顔をして言った。「よし,今度ラーメンを食べに行こう。」と言うと, きょとんとした顔をしている。「なんだ,ラーメンは嫌いか。」と言うと,「いえ,そんなことはありません。」ということで,土曜日に, いっしょにラーメン屋に行くことにした。

約束通り,土曜日の午後,車に乗せて,ラーメンのおいしい店へ連れていった。 わたしが大好きなみそラーメンを注文すると,彼も同じ品を注文した。

彼は,車に乗ったときから,故郷や,家族の話などをしていたが,店に入っても,別に彼の「相談」はない。 店の中でも,学校での面白い話や,楽しい話が続いた。結局,ラーメンがおいしかったということで,彼との話は終わった。

その後,彼の表情から心配そうな様子は,全く消えてしまった。ラーメン店では, 世間ばなし以外の話は何もしなかったのにである。ただ一杯のみそラーメンを食べたに過ぎない。 まるでみそラーメンに心配事を解決してもらったようなものである。

高校の卒業式の日,高Ⅲの担任の先生から,「職員室に挨拶にいきましたが,不在でしたので, お世話になったと伝えてください。」という,彼の伝言を受け取った。

という話です。

 

彼は東大の理系を卒業したのですが,その後司法試験に合格して, 現在元気にやっているという電話が先日ありました。

もし,わたしが寮生活で生徒と共に食事をするという経験をしていなかったら, 生徒を食事に連れ出すということは思いつかなかったでしょう。「同じ釜の飯を食う。」ことから得たヒントを応用したのが, この出来事でした。

皆さんが,これから,人生経験を積んで,人を指導する立場になったときに,ぜひ, 同僚や部下と食事を共にしながら,話をしてみるとよいと思います。必ず良い結果が出てくることでしょう。また,わたしは, 生徒や子どもを温泉に連れて行って,背中を流した経験も幾度かあります。背中を流してもらって心を動かさない人間はいません。 皆さんが将来結婚し,子育てをする中で,時に試してみてください。親子の間の信頼が必ず生まれると,これは,断言しておきます。

中学・高校で,寮生活を体験できたこと,これを宝として,自分の人生に生かしてもらいたい, 生かしてこそ寮生活の意味があったのだと申し上げて,卒寮式の挨拶といたします。

 

お知らせ 今年度の「チュータのひとりごと」 は今回で終了です。来年度は4月13日(日)から開始いたします。
昨日の愛光高等学校第50回卒業式の式辞を掲載します。1回で掲載するため長くなりますので, 最初と最後の挨拶の部分を省略いたします。

 式辞

 五十期生は,本学園が男女共学化した年の,中一生として入学した,文字通り,男女共学第一期生であります。 中学の入学式で皆さんの様子をあの司会席の脇で,なぜかあふれ出る涙でファインダーの中がよく見えないまま, 震える手でシャッターボタンを押したことが,今でもわたしの脳裏に,はっきりとした光景として焼きついています。

あれから六年,途中高校で新しき友を迎え,男女共学化した最初の学年として,学園の期待を一身に担い, 織田学年主任を中心とする高三学年部の指導のもと,立派に育ってくれました。皆さんが積み重ねてきた努力に対して,心より「卒業おめでとう。 良く頑張りました。」と申し上げます。この言葉と気持ち以上に付け加えるべきことはないのですが, 皆さんの新しい人生の門出を祝う記念の日でありますので,日頃感じることを述べ,皆さんを送る激励の言葉にしたいと思います。

わたしは学校説明会や入試説明会で,「人間は他人のために存在する。」というアインシュタインの言葉をよく引用します。 アインシュタインはこの言葉を「The World as I see it」 (わが世界観)の中で述べているのですが,この「人間は他人のために存在する。」という部分は,実は, 日本語訳として大学入試に出題しても良いくらいの英文の一部なのです。原文を紹介したいのですが,少し長い英文であるため,ここでは, できるだけ簡潔な日本語訳として紹介してみましょう。「われわれは,同胞のために存在している。先ず,その笑顔や幸せが, 自分の幸福につながる人たちのために。そして,次に,その運命が共感という絆で結ばれているすべての見知らぬ人たちのために。」

この最初の部分は,英語では「We exist for our fellow-men.」 と述べられており,この部分が「人間は他人のために存在する。」と訳されているのです。その後(あと)の英文は関係代名詞whoseが用いられているために日本語訳が難しくなっています。

日本語訳の問題はともかく,人を思いやるよりも,人に思いをくれという人間が多くなってきた現代において, このアインシュタインの言葉は非常に大切なものだとわたしは考えています。そして, 初代校長田中忠夫先生が雪の降る夜に一晩で書きあげたと言われている本校の建学の理念とも言うべき,あの「われらの信条」にも, 同じ意味の言葉が述べられています。それは「愛と光の使徒たらんこと!これがわれらの信条である。」という「われらの信条」 の最後に述べられている言葉です。

愛と光とはキリストの言う愛と光のことに言及していることは言うまでもありません。キリストの言う愛は,人間創造の親としての愛, つまり世界のすべての人々に分け隔てなく行き渡る愛のことについて述べているのだと思います。光というのも人間創造の親として, 知性と徳性に溢れる光で,世界を隈なく照らすことを意味しているのだとわたしは考えています。

「愛と光の使徒たらんこと!」という「愛と光」とは,究極的にはとてつもなく広い神の愛と光という意味です。しかし, 現実のわれわれの生活においては,先ず隣人愛,つまり,アインシュタインが言う,その笑顔や幸せが, 自分の幸福につながる人たちに対する愛から始めなければならないのだと思うのです。また,知性と徳性に溢れる光にしても,先ず, その笑顔や幸せが,自分の幸福につながる人たちに対して投げかけて行かねばならないものだと考えます。

そして,「愛と光」が,その運命が共感という絆で結ばれているすべての見知らぬ人たちにまで及んだ時に,はじめて神の望む 「愛と光の使徒」の姿が見えてくるのではないでしょうか。

ここで,わたしは愛と光の使徒を目指す皆さんにとって,最も必要な資質は何かということについて触れておきます。

二〇〇五年にノーベル平和賞を受賞したケニアのワンガリ・マータイさんがエコロジーの言葉として「モッタイナイ」 という日本語を世界に紹介したことは皆さんもよく知っていることと思います。この言葉は,ただ単に物を大切にすることにとどまらず, 精神的な面でも慎み深く謙虚であることの大切さに触れている言葉だと強く感じます。皆さんが世界に羽ばたいていくときに,ぜひ, この慎みの精神を身につけておいてもらいたいのです。新約聖書の「テモテへの第二の手紙」の第1章7節で,パウロがテモテに向かって 「神がわたしたちに下さったのは,力と愛と慎みの霊である。」と述べているように,神は力や愛において支えてくれてはいるものの, 傲慢な態度になることなく,慎みの精神を持って自分以外の他人のために生きることをわたしたちに教えています。 自分の幸せばかりを求めるのではなく,他人の幸福を第1に考える気持ちを持たなければ,いずれ世界は行き詰まり, 人類に未来はないと言っても過言ではないとわたしは,考えています。

現在人類が直面している大きな問題の一つである環境問題を取り上げてみても,この慎みの精神なくして実現は不可能だと思われます。 環境問題の中で,現在,最も深刻なものは,気候変動による環境変化の問題と言えるでしょう。 日本各地でも異常気象ではないかと思われる例がいくつも報告されています。 今年の元日の朝日新聞の一面に環境元年と題して紹介された記事には,「気候変動による環境変化は社会のバランスを崩し, 直接の原因にならなくとも紛争の下地を作り,悪化させ,平和を脅かす要因になる。」と書かれていました。さらに, アフリカのある地域の紛争の一因が気候変動による環境危機として始まったのではないかと指摘しており,このことを考えても, 環境問題への取り組みがいかに急務であるかということが理解できると思います。しかも,その取り組みは, わたしたち個々人が今すぐにでもできることだというところに大きな意味があるのです。それは「もったいない」 から始まる慎みの気持ちを持つことです。慎みの気持ちこそ, 世界の諸問題を解決する糸口になるのではないかと申し上げて卒業生の皆さんに対する餞(はなむけ)の言葉といたします。

さて,ご父母の皆様へのご挨拶の前に, 本来はこの式に参加をしているはずであった德永浩人君のことについて述べておきたいと思います。中学入学の2か月後に,不慮の交通事故で亡くなり,本人もご家族の方々も本当に無念であったと思います。どのように,また, いくら考えても無念の思いはつきませんが,今となっては,お母様が,「浩人は,愛光50期生の守り神となって頑張ってくれると思います。」 と亡き浩人君の前で語ってくれた言葉を,何時までも胸に秘めて, 浩人君が天からわたしたちを見守ってくれていることを忘れないでほしいと思います。

(一部省略)

愛光学園の卒業生として,誇りと慎みをもって世界に羽ばたいてくれることを期待し,それぞれの道での健闘を祈ります。
中学マラソン大会

昨日の土曜日に中学マラソン大会を実施しました。開会と閉会の挨拶を掲載します。

 

開会の挨拶

わたしは小・中学生のころ,別に1番にこだわったわけではないのですが,短距離の徒歩競争では,常に, 回れ右して1番でした。つまり,いつもビリだったということですから,走ることに苦手意識が出て,体育大会のたびに, なぜ自分がこんなに走るのが遅いのか悩んだ記憶があります。

ただ,最初に赴任した学校で,中学男子寮(80名)の舎監も担当していたこともあって, その中学寮生を鍛えてやりたいという思いから,毎日放課後,生徒と一緒になってかけ声をかけながら,校内をランニングしました。 学校の敷地は愛光の敷地の6倍で60万平方メートルあり,しかも,丘あり谷ありのマラソンをするには絶好の場所でした。 そして, 本校と同じように3学期には,マラソン大会を行っていました。そのマラソン大会で,不思議なことが起こったのです。 それは上位に入った生徒のほとんどが寮生だったことです。わたしも生徒と一緒に走りましたが,中学全体で 8番の成績でした。 このとき,なるほど,短距離は個人の素質が大きく影響するが,マラソンなら,鍛錬でもって, ある程度までは成果をおさめることができると感じたのです。

皆さんはこの日のために,体育の授業や,放課後にそれぞれが練習を積み重ねてきたことと思います。今日は, その成果を十分に発揮してくれることを期待しています。

マラソン大会の目的の一つ,「最後まで走りとおすこと」に意味があるのです。頑張ってください。

 

 

閉会の挨拶(各学年別に行ったものです。 )

皆さん, よく頑張りました。最後まで良く走りきってくれました。

さて,開会の挨拶で申し上げたとおり,マラソンは,毎日続けていると, ある程度までは成績を上げることができるのです。実は君たちの勉学も,このマラソンに似ているとわたしは考えています。 「続いてこそ道」とか「継続とは力なり」と言います。こつこつ積み重ねていくことが大変であることは分かっているつもりですが, 事を成し遂げようとすると,これしか方法はないのです。

皆さんの身体のことを考えてもよく分かると思います。毎日,身長がどれだけ伸びているか, 意識している人は先ずいないでしょう。ところが,毎日適度な睡眠と食事を続けることによって,いつのまにか,背丈が伸びているのです。

続けることの大切さを意識して, 今後の学生生活を続けてほしいということをお願いして終わりの挨拶といたします。

チュータのひとりごと 第206回

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勇んで仕事と向かい合えるとき

(この原稿は以前に同窓会の依頼を受けて作成したものを一部書き換えたものです。)

 

わたしは, 人は生活を共有する周りの人たちの喜びを,自らの喜びにする傾向があると感じている。

毎年5月末に中1の集団宿泊研修を, 「国立大洲青少年交流の家」で実施することにしている。いつの年だったか,この研修のプログラムの中の「カヌー研修」において, ある生徒の時計が河原で紛失するという出来事があった。

この時, 引率教員と生徒の友人も一緒になって探したが,見つからなかった。帰りの時間がやってきたため,探すのをやめてバスに乗り, 宿舎に帰ったが,わたしは生徒が時計をなくしたことを聞いていたので,宿舎にもどってからも気になっていた。

後で分かったのだが, 車で出かけていた教員が,この話を聞いて,河原に向かい,1時間以上かけてあたりが暗くなるまで探してくれていた。しかし, それでも見つからなかったのである。

結局, 見つけることができないまま,松山へ帰ることになった。この研修は日曜日を途中にはさんでいたため,研修の翌日が代休であった。 この代休の日に別の二人の教員が,それぞれの思いから,大洲へと出かけていた。大洲まで高速道路を利用すれば, 1時間半くらいで到着するのだが,紛失した時計を何とか探してやりたいという思いを持って出かけてくれたのである。わたしは, この3人の教員がなぜ,そこまでして時計を探したかということを考えてみた。それは, おそらく時計が見つかった時の生徒の喜ぶ姿を思い浮かべたからであろう。

この気持ちが天に通じたのだと思うが, 時計は他のグループの人が,河原で見つけてくださり,「青少年の家」に届けてくれていた。

人は他人の喜ぶ姿が先に見えたとき, 勇んで仕事に立ち向かっているようにわたしには思える。

わたしが,5年半, 「チュータ日誌」を続けることができたのも,ご父母や同窓生の皆様の喜ぶ顔がディスプレイの奥に思い浮かんだからであろう。 人が人の喜ぶ姿を見て共に喜ぶ,これこそ,最高の喜びであろうと思う。わたしはこの喜びを5年半味わうことができたことを, 教師生活における最高の思い出だと,とても幸せに感じている。

「人の喜ぶ姿を先に見る」, これが仕事に勇んで立ち向かう秘訣の一つではないかと思っている。
 校長室(2)

 わたしの授業では,毎回,小テストを実施するが,この小テストは前時の授業内容から3問, 「NHK基礎英語1」の暗唱文から2問を出題することにしている。「NHK基礎英語1」では, 中1生にとってやや難しい英単語や英語表現が使われているため,小テストには,既習の単語や表現の出題を心がけている。1問2点, 合計10点満点で,7点以下の生徒には毎回ペナルティーを課す。もちろん, 生徒たちが予習や復習を真面目に続ける習慣を中1の間につけたいという思いがあってのことである。

 中1生はまだ不注意なミスをすることもあって,8点以上をとれない生徒が毎回出てしまう。8点以上をとれなかった生徒たちは, 出題されたすべての英文をノートに書き,午前中に授業のあった者は昼休みに, 午後に授業のあった者は放課後に校長室にやってきて,ノートのチェックを受ける。チェックをしていて, 生徒の中には校長室に来ることを楽しみにしている者のいることに気が付いた。

 彼らが入室したとたん,最初に発する言葉が,「校長室は広い!」という驚きの言葉で, ノートのチェックを終えても,しばらくは退室しようとしない。隅から隅まで校長室を観察したり, 中には椅子に座らせてほしいと言う生徒までいる。

 次からペナルティーにかからないよう努力しなさいと告げると,「分かりました。ありがとうございました。」 と元気のよい声で返答をして,さわやかに(?)退室する。

 ペナルティーで校長室に出入りするのを楽しみにされては困るが,校長室で生徒に話しかける言葉が, 生徒のやる気につながってくれればと願ってやまない。教師の言葉で生徒がやる気になることもあれば,やる気を失うこともある。 特にクラス担任として生徒と接していないわたしには,生徒にかける言葉に最大の注意を払わなければならないことを, 常に自分に言い聞かせている。

 学校長が授業を担当することは珍しいと聞くが, わたしは来年度以降もできる限り英語の授業を続けたいと考えている。 愛光では生徒が学校長の英語の授業を受けることを楽しみにしてもらえるよう,授業に様々な工夫を加えたい。

 最後に,しばらく中断していた「チュータのひとりごと」を再開したことを報告しておく。 教頭に就任してから今年の8月まで中断していた「ひとりごと」を,毎週日曜日に更新させてもらうことにした。校長として, 生徒やご父母,また同窓生に話したこと,また,校長としての考え,体験などを中心に毎週1回の更新を予定している。 この更新がまた新たなる活力になることを願って。

おわり
校長室(1)

8月に校長に就任してから,3か月が経過した。

 校長の役目の一つに,生徒,ご父母,同窓生,教職員への講話がある。始業式,文化祭,体育大会, 高校部全体集会,中学部全体集会,同窓会,全国各地で実施される入試説明会など,次から次へと話をする機会が与えられ, 他の仕事の合間に原稿を書き,講話に備えてはいるものの,余裕を持って取り組むことができているとは言えない。

 仕事は,基本的には,ある程度楽しみながら,追いかけるようにしてこなしていかないと, 過度のストレスとなることが多い。「チュータ日誌」を担当しているときは,オーバーな表現だと思われるかも知れないが, 毎日楽しみにして見てくださるご父母や同窓生の顔が,本当にディスプレイの奥に映って見えたこともあり,やる気が増幅し, 「チュータ日誌」のタイトルや「チュータのひとりごと」のタイトルが次々と頭に浮かんできたことを覚えている。

 校長職もそのように順調にいけば,素晴らしいだろうなという思いはあるが, 実際はそんなに簡単なことではない。その中で,現在,中1生の英語2を週に8時限担当していて, この授業に対する工夫と授業中の生徒の反応が校長の仕事に対する気持ちを高めてくれているのではないかと思い始めた。

 校長職と授業を同時に担当するのは大変ではないかという声もあったが,わたしは,授業を担当するほうが, 自分のやる気が増大すると考えた。さらに,校長に就任する直前,何人もの中1生から,「英語2の授業はどうなるのですか。 ぜひ授業を続けてください。」と言われ,わたしはすっかり気をよくして,授業を継続することに決めた。今, 本当に続けていてよかったと実感している。授業が終わった後の疲れは感じるものの,爽やかな疲労感である。この爽やかな気分が, 仕事の意欲をいっそう増大させてくれていることに気付いたのはごく最近のことである。

 生徒が授業中に見せる楽しそうで,いきいきとした表情がわたしにとっては最高のプレゼントであり, この生徒の表情に出会えることが,教師の最高の宝であると言えるのではないかと思っている。この考えは,38年前,「全人教育」 のふるさと,玉川の丘で,玉川学園中学部の英語教師と青雲塾(中学の寮)舎監として,教師の道を歩み始めた時と変わってはいない。

 つづく
2007年忘年会

 

毎年恒例の教職員の忘年会が市内のホテルで行われた。理事長挨拶に続いて,校長挨拶で次のような話をした。

 

まだ授業や父母面談などを残していますが,2007年を無事に終えることができますことは, 皆さん一人ひとりのおかげであると心から感謝いたしております。

 わたしは,学校説明会や入試説明会で,アインシュタインが述べた「人間は他人のために存在する。」 という言葉を次の形でよく引用します。

 

本校には,「人間は他人のために存在する。」その言葉どおりに,その言葉そのままに生きる 「よき社会のリーダー」を育成する夢があります。

 

もちろん,アインシュタインが述べた言葉は英語でありますが,日本語独特の表現に, これと同じような言葉があるのではないかと考えていましたところ,次のような言葉を思い出しました。

それは「働くということはハタの人を楽にさせること。」という言葉であります。 単なる語呂合わせだと言われる方もいらっしゃると思いますが,わたしは,実に分かりやすく,うまい表現だと思っています。

 

わたしは,今,自分が働くことによって,本当にハタの人を楽にさせているのだろうかと考えることがあります。 いや,実は逆で,自分は,ハタの人から楽をさせてもらっているのではないかという思いに至り,冒頭の感謝の言葉となった次第です。

 

 また,思い出したもう一つの言葉は,「高く仕入れて,安く売る。」という言葉であります。 ずいぶん無茶な言葉に聞こえるかも知れませんが,わたしは,これも実に素晴らしい言葉だと思っています。高く仕入れて取引先を喜ばせ, 安く売って顧客に喜ばれる。両者を喜ばせる徳でもって,自分が喜ばせてもらうという考えです。 理念の中にこの考えを取り入れている企業は栄えていくと,いろいろな実例により,わたしは確信しています。

「人間は他人のために存在する。」「働くということはハタの人を楽にさせること。」「高く仕入れて安く売る。 」 ,この三つの言葉に共通する精神は,利他の精神であります。

 

教育の世界にも,この利他の精神は必要であると思います。それでは, この利他の精神がわたしたち愛光の教育理念ともいうべき「われらの信条」ではどのように表現されているのでしょうか。それは, 最後の部分,「愛と光の使徒たらんこと」という言葉で明確に示されているとわたしは考えています。

 

最後に,われわれの日常の教育の世界で,利他の精神をどのように生かしていくか, 教職員のそれぞれが考えなければならない課題であることを忘れないでほしいと述べて,挨拶といたします。
 新年おめでとうございます。引き続き,「チュータのひとりごと」を毎週日曜日に更新させていただく予定です。 本年もよろしくお願いいたします。

今回は,生徒に放送で行った「年頭の挨拶」を紹介いたします。

年頭挨拶(平成20年1月8日)

 あけましておめでとうございます。新しい年,2008年を迎えました。新しい年が, 平和で希望あるものとなることを祈るとともに,元気で新しい年に向かってチャレンジしてほしいと願っています。

 今年の暦の干支(えと)は戊子 (つちのえ・ね)で,動物は鼠があてられます。

 

(この後,漢字「戊」と「子」について説明しましたが,ここでは省略いたします。)

 

さて,干支からその年を見つめるのも,確かに一つのものの見方かも知れませんが,わたしは,勢いのある年にするかしないか, つまり良い年にするかしないかは,社会の一員であるわたしたち一人ひとりが, どのような態度で日常の生活をおくるかにかかっていると考えています。つまり願いどおりに世の中がなるのではなく, われわれの日ごろの心遣いや行動によって,世の中がよくもなり,悪くもなるのではないかと考えるのです。

 例えば,暦ではこの日は事を起こすのに,よくない日だとか, 何かを行うのに最適の日であるとかなどという言葉をよく耳にしますが,本当にそうかと問われると, 誰も明快な返答をする人はいないと思います。人生に初めから悪い年や悪い日などはないというのがわたしの考えです。つまり, その人の人生の歩み方,日ごろの心遣いによって,悪い年や悪い日になったりすることがあるものだと思うのです。

また,都合が悪いと思ったことも,後には,あれでよかったと思うことがよくあります。

 とすると,人生では都合の悪いことが必ずしも悪い結果になるとは限らないと考えたほうが適当なのかもしれません。

 自分の身に降りかかってくる出来事は,次に何をしたら良いかということを考えるきっかけを与えられたと思って, 常に前向きな人生を送ろうという気持ちを持つと,次第に道が開けてくるものです。日々, それぞれの考え方を正す姿勢を忘れないでほしいと思います。

 

最後に50期高Ⅲ生の皆さんに申し上げます。いよいよ,センター試験が目前に迫ってきました。日々, 懸命に努力していることと確信しておりますが,これからの一日一日は非常に重要です。自分を励まし,最後の最後まで, 緊張感を途切れさすことなく,学習を続けてください。必ず良い結果に繋がると信じています。心から健闘を祈ってやみません。 それでは全生徒の皆さん,今年も共に頑張っていきましょう。これで年頭の挨拶を終わります。
学園関係物故者追悼式

11月17日(土)の午後1時から「学園関係物故者追悼式」 が井原彰一神父様(ドミニコ修道会司祭,聖マルチン病院診療内科部長)をお迎えし,父母の会副会長,同窓会会長, ご遺族の皆様が参列し,全校生徒も参加して,おごそかな雰囲気の中で執り行われた。

 

司祭入場の後,学校長挨拶の場で,わたしは次のような挨拶をした。

 

創立から55年が経過しようとしています。本校の第1期生は現在67歳を迎えています。67歳と言えば, まだまだ若い年齢だと思うのですが,残念ながら同窓生のみならず,旧教職員,さらに, 学園に深く関係する方々でこの1年間にお亡くなりになられた方がいらっしゃいます。 ご逝去されたすべての学園関係の皆様のご冥福を願って, 4年目を迎える追悼式を今年もこのように盛大に行うことができることを感謝しています。

 

故人を追悼するということは,故人のご冥福をお祈りするだけではなく,故人がこの世で歩んだ足跡や, この世に残してくださった業績に対して,深い敬慕の念を示すことであるとわたくしは考えています。その敬慕の念こそが, 愛光文化の伝承となると信じるからであります。

 

 また,この世の中に生かされ,生きているわれわれが, 扉を開いて新しい世界に向かってチャレンジする決意を故人に対して表明し,故人の御霊(みたま)に喜んでいただく場が, この追悼式ではないかと述べて始めのことばといたします。

 

わたしはこの挨拶の最後の部分で,「この世の中に生かされ,生きている」という表現を使ったが, その思いはこうである。

 

人間は寿命がくれば,どんな人でもこの世の中に別れを告げなければならない。よく考えてみると, わたしたちが勝手気ままに使えるように思っている自分の身体は,自分の持ち物であるようで,実際には自分のものではない。 この世から去れば,身体は自然にもどさなければならない。このように考えると, 人間の身体は何か偉大なる存在から借り受けたものであるように思えてくるのである。身体を借りてこの地球上に存在していると考えると, この世の中に生かされているという考え方が理解できる。これに対して,人間の心は自分の経験の範囲内で思うように使うことができる。 すると,生きているという能動的な考えが可能であるように思われる。

「生かされ,生きている」と表現したのには,上記のような思いがあったのである。

 

お知らせ

今年の「チュータのひとりごと」は今回が最終です。新年は1月13日(日)から開始いたします。
 学校説明会(2)

小学生の皆さんに分かりやすく言うと,愛光は勉学とキリストの愛の精神を大切にする学校だということです。

勉学を大切にしているというと,勉強ばかりする学校というイメージが生じるかもしれませんので, それだけではないことをお話しておきましょう。

 愛光は厳しさと楽しさの共存を追及しています。

楽しさというと誤解があるかもしれませんが,楽しさと言うのは学校生活が充実していることだとわたしは考えています。

学校生活の充実のために,部活動や行事が準備されているのです。本校には,12の運動部と11の文化部があり, いずれも活発な活動を行っています。門屋(かどや)方典(みちのり)2代校長の時に, 文武両道の打ち出しがあり,その後もその精神は受け継がれていて,中学1年で約90%,中2,中3で約80%,高校1年で約60%, 高校2年で約55%の生徒が部活動に参加し,活動しています。

この部活動は高2で終了し,高3は受験に向けて頑張ってもらいます。

こうして,本校で修得した知性と,徳性を生かして,将来,社会のよきリーダーになってほしいというのが学校の願いです。 アインシュタインは「人間は他人のために存在する。」と言っていますが,まさしくその言葉どおりに, その言葉そのままに生きる社会のよきリーダーを育てたいという夢が本校にはあるのです。

さて,先ほど理事長が挨拶の中で述べましたように,学校の宝は,生徒,そして教職員です。全国各地から同じ志を持ち,かつ, 様々な価値観を持った生徒たちが集まり,その中で自分を磨けるということは,実に素晴らしい人生経験だと思います。

また,ユニークな個性を持った,厳しくかつ心優しい先生が大勢います。

 

ここで,一つのエピソードを紹介したが,その内容については後日紹介させてもらう。

そして,話の結びに,次のように述べてわたしの教育方針の話を終えた。

 

厳しさと優しさを兼ね備えた先生方,そして,全国各地から集まった生徒たちとともに,愛光で学び, 素晴らしい思い出作りをしようではありませんか。「教育とは卒業後の思い出なり」,ここにお集まりの生徒の皆さん, そしてご父母の皆さん方と,ここ愛光の丘で共に思い出づくりができることを願ってやみません。

おわり

2013年1月

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