寮舎監
2週続けて,前任校の塾(寮)生活の一部を紹介したので,今回は,本校の寮での体験を述べてみたい。
わたしは,1977年(昭和52年)の4月から愛光に勤務しているが,その時寮を担当した経験をかわれて,寮務課に配属された。
当時,本校の寮では宿泊指導があり,寮務課の教員は1週間に1度宿泊をしていた。そして,ときどき舎監の休日に舎監業務を代行するようなこともあった。
ある年,わたしは,図書館の北側にあるドミニコ寮の舎監業務を1週間に1度,金曜日の夜に代行することになった。4年間の塾(寮)生活の経験があるので,仕事の内容はよく分かっていたし,睡眠時間が短くなることを除けば,そう大した仕事であるとは思っていなかった。しかし,毎週勤務をするうち,どうも生徒の一部に落ち着きがみられないことに気がついた。そこで,はっと思い当たったのである。翌日は土曜日であり,授業は4時間しかない。従って予習の量が少なくなり,学習時間も余ってしまう。そのため生徒の中にはある部屋に集まって,雑談をしたり,ゲームをしたりと,いわゆる寮内の学習時間中における違反行為をする者が出てくる。これが落ち着かない原因だと分かった。さっそく学習時間中に巡回を何度も繰り返すことによって,何とか防ぐことができたが,大変しんどい思いをした。
学習時間が終わって消灯,就寝となるが,就寝後に再び違反行為をする者が出ているといううわさが,その後耳に入った。寮生は,教員が夜中までは見回りに来ないであろうとたかをくくっていたらしい。わたしは生徒が就寝した後,見回りをして,一旦床についたが,目覚まし時計を午前3時に鳴るように設定しておいた。そして午前の3時から見回りを開始したのである。
3時といえば真夜中である。全員の寮生が寝静まっているのだから,物音一つしないはずなのに,結構にぎやかである。いびきから寝息までいろいろな物音が聞こえてくる。中には廊下にまで寝言が聞こえたりしている。それだけではない。うわさは的中して,生徒の中には,ほんの数名ではあるが,一室に集まって楽しく時を過ごしている元気者がいた。もちろん厳しく注意をしてそれぞれの部屋に帰した。こうして4~5週間指導を続けると,金曜日の夜は,起きていても必ず見つかるということで,違反者は全くいなくなった。そのうち寮生たちは,わたしが宿泊する日を「魔の金曜日」と呼ぶようになった。
巡回をしていて生徒が一人も起きていないというのは嬉しいようでもあり,反面,寂しいような複雑な気持ちになったことを覚えている。
しかし,時には,寮の学習時間で予習や宿題を終えることができなかった生徒が,消灯後,懐中電灯を使って学習をしている姿を目撃することもあった。教科書をめくるかすかな音で,起きていることが分かるのである。こういう場合は,「早く寝なさいよ。目に悪いよ。」とそっと声をかけて,静かにドアを閉じる。「懐勉」を勧めるわけではないが,その日のうちに仕上げねばならないことは,懐中電灯を使ってまでも仕上げるという生徒の姿に接して心うたれたものである。
「懐勉」消灯後に懐中電灯を使用して学習をすること
スキンシップ
先週,生徒と一緒に豚を飼育した体験について述べたが,今回は,これらの豚と一緒に飼っていた羊のことに触れてみたい。
なぜ豚と一緒に羊が飼育されていたのか,その理由は未だに分からない。時々毛を刈っていたが,その羊毛を売って収益を得たという話は聞かなかった。
この羊が意外にも人見知り(?)をして,中1生になつかないので困った。毎朝,「先生,羊が動かないんです。何とかしてください。」と,生徒がわたしのところにやってくる。わたしは,そのつど谷間に降りて行って,羊を小屋から連れ出した。不思議なことに,この羊はわたしの言うことは,よく聞いたのである。忙しくて谷間に降りていく時間がない時に,何かよい方法はないものかと考えていたが,ある時学校から塾(寮)への帰り道に,何気なく谷間に向かって「メエーー」と羊の鳴きまねをしてみた。すると羊が「メエーー」と応えたのである。
翌朝,生徒が羊を連れ出してほしいと言ってきた時に,試しに谷間に向かって,「メエーー」とやってみた。するとわたしの「鳴き声」につられて,羊が「メエーー」と鳴きながら小屋から出てきたのである。わたしはこれに味をしめ,毎朝,モーニングコール(?)を谷間に送ってやった。それ以来,わたしの「鳴き声」だけで,羊は中1生の誘導に素直に従ったのである。もちろん,時には谷間に降りて行って,やさしく話しかけながら,頭や体をなでてやるスキンシップを試みたことはいうまでもない。
わたしは,生徒が忘れ物をしたり,宿題を忘れた時,理由を訊ねながら,その生徒の頭をなでることがよくある。「次は忘れてはいけないよ。」というメッセージを込めて,スキンシップを図っているつもりだが,羊と違って生徒は迷惑に思っているかもしれない。
塾(寮)生活
寮の「安食日」や「中1生の居室」,「中2の学習室」の様子などを,ホームページで伝えているうちに,はじめて自分が教員になった頃,中学生と一緒に4年間の塾(寮)生活をしたことを思い出した。今回はそのことについて書いてみたい。
当時,わたしは幼稚園から大学まである東京の私立中学に勤務していたが,学校の信条の中に塾教育というものがあり,中学,高校,大学がそれぞれの塾を持っていた。この塾は松下村塾の流れを汲むものであった。
こうして昼間は学校の教師,夜は塾の舎監として,文字通り24時間生徒と共に生活をすることになった。どちらかと言えば,熱血型の自分にとっては,この二重生活ともいうべき厳しい勤務も全く苦痛に思ったことはなかった。
しかし,ただ一つ,「これは,えらいことになったなあ。」と思ったことがある。それは,1年目の教員は豚舎の係長になるという,とんでもない慣習があったからである。
豚舎は谷間にあり,そこまで豚に食わす残飯を持って降りていくのが一苦労であった。また夏には特にひどいにおいがするので,これには閉口した。汚れた豚舎の清掃は並大抵なことではなかった。
豚は賢い動物で,きれい好きな面もあるが,どろんこ遊びが大好きでもある。中1生と豚舎係長のわたしが豚の世話をしていたのだが,豚は中1生が自分よりも小さいと見ると,突進して生徒が運ぶ残飯をよくひっくり返した。中1生に豚を飼育した経験などあろうはずがなく,もちろんわたしも初めての経験で,両者がおっかなびっくり世話をするものだから,豚はわれわれをからかっていたのかもしれない。こうして,いたずら好きで遊び好きの豚に翻弄される毎日であった。
そして1年間大事に育て,まるまると太った数頭の豚を売った収益で,塾生全員のクリスマスプレゼントを買っていた。
このクリスマスプレゼントは中3生が選ぶことになっていたが,わたしにもプレゼントがあった。塾で最初にもらったプレゼントが,アタッシュケースであった。それ以来,学校へ授業の道具を持ち運ぶカバンは,アタッシュケースとなった。古いアタッシュケースが壊れて,新しいものを購入するたびに,ともに過ごした塾生と豚のことが不思議に頭に浮かんでくるのである。
台風
今年は,珍しく四国に上陸した台風はなかったと思う。台風上陸時に,本校生がどのように対応すべきかは,生徒手帳の21ページの「暴風警報時の休校について」という項目で,述べられている。
実は,生徒には,別紙でもう少し詳細な連絡が次のように,伝えられている。
「NHKの放送で,午前6:00から8:30分までの間に,中予地区に暴風警報が発令されている場合,休校になります。また午前6:00の時点で,警報が発令されている場合は,上記時間内に警報が解除された場合も,休校です。」
島での生活で,この台風についての忘れられない体験があるので,先週に引き続いて紹介してみたい。
瀬戸内海は波が穏やかで,海が荒れることはほとんどないと思っている人が多いのには驚かされる。しかし,台風がくるとなると,島の人たちは,一日がかりで,備えを怠らなかった。海側に面している出入り口や窓には,板をくぎで打ち付け,満潮時に上陸という情報がある場合は,一階の畳を全部上げて,海水につからないようにした。
現在は,道幅も広くなり,波よけの設備もできたので,それほど心配する必要はないのだが,わたしの子供の頃には,家の前の4メートルの道路の先は,すぐ海であった。もちろん,波よけなどあろうはずがない。
台風がくると,大きな波が岸に当たって,ドーンという体を揺さぶる轟音とともに,地響きを感じたものだった。そして,波が砕け散り,そのしぶきが,屋根瓦を洗うのである。しかも,それが何時間も繰り返される。翌朝起きてみると,道路が波でえぐられていることもあった。
わたしは,台風接近という予報を聞くと,今でも,すぐ家の周りの片付けをし,雨戸をしっかりと閉め,暴風に備える。周りの者は,また始まったと笑っているが,この少年時代の恐怖とも言ってよい体験のせいか,じっとしていられないのである。
昔から,怖いものの順番に,地震,雷,火事,オヤジが挙げられているが,わたしにとっては,これらのものより台風の方が,はるかに怖い存在として,記憶の中に鮮明に焼き付いている。
11月11日(土)のホームページで紹介した学校説明会の前日に,校内の大掃除があった。わたしの担当区域は,玄関前で,高ⅠAの生徒と一緒に,ごみや落ち葉を拾い集めた。その時,中学時代の掃除のことを思い出したので触れてみたい。
わたしが通った中学校は,瀬戸内海に浮かぶ小さな島の中にある,当時,生徒総数300名余りの小さな学校であった。ちなみに,現在は,30数名になっているらしい。
中学生活は全般的に楽しいものであったが,トイレ掃除だけは,逃れたいと,いつも思っていた。それは今のように水洗トイレではなく,汲み取り式のトイレであったため,清掃の時間に,「肥たご」に入れて,小高いところにある野壷まで,移動しなければならなかったからである。途中険しい踏み分け道の坂があり,ここを二人で運ぶとき,前で「肥たご」をかつぐか,後ろでかつぐかで,大きな違いがあった。ジャンケンで前か後ろかを決めていたが,後ろになると悲惨であった。急な坂道を登るため,後ろの生徒は竿を精一杯持ち上げなければならない。そうしないと,あの田舎の香水が自分の顔にかかってしまうのである。必死で持ち上げるのであるが,なにしろ背丈が低いために,バランスが崩れ,ひどい目にあったことが何度かあった。友人の中には,手を離したために,形容しがたい姿になった者もいた。
この中学校での貴重な体験が,掃除は真剣に取り組むものだということを教えてくれたのであろう。生徒と一緒に掃除をするとき,いまだに思わず力が入ってしまい,つい声が大きくなってしまうのである。
「肥たご」... 屎尿を入れる桶
一杯のみそラーメン
中学の担任をしていた頃の話である。ある日,担当学年の生徒の一人が横にやってきて,「先生,相談があるんです。」と少し心配そうな顔をしている。「よし,今度ラーメンを食べに行こう。」と言うと,きょとんとした顔をしている。「なんだ,ラーメンは嫌いか。」と言うと,「いえ,そんなことはありません。」ということで,土曜日の昼に,いっしょにラーメン屋に行くことにした。
約束通り,土曜日の午後,車に乗せて,ラーメンのおいしい店へ連れていった。わたしは,みそラーメンが大好きで,注文すると,彼も同じ品を注文した。
彼は,車に乗ったときから,故郷や,家族の話などをしていたが,店に入っても,別に彼の「相談」はない。店の中でも,学校での面白い話や,楽しい話が続いた。結局,ラーメンがおいしかったということで,彼との話は終わった。
その後,彼の表情から心配そうな様子は,全く消えてしまった。ラーメン店では,世間ばなし以外の話は何もしなかったのにである。ただ一杯のみそラーメンを食べたに過ぎない。まるでみそラーメンに心配事を解決してもらったようなものである。
高校の卒業式の日,高Ⅲの担任の先生から,「職員室に挨拶にいきましたが,不在でしたので,お世話になったと伝えてください。」とわたしに伝えてほしいという,彼の伝言を受け取った。
まさしく,黄金のラーメンであった。
先週に引き続き,もうひとつ卒業生の下宿生活について紹介したい。
寮生活から下宿生活になって,良いことは何か,という問いに,暖かい食事を取ることができるという答えが最も多かった。当時の寮は,食事が早い時間に用意されるため,せっかくのごちそうが,さめてしまうという問題があったので,これは,当然の答えかもしれない。
下宿生のお世話をしてくださる人たちも,生徒のためを思って,いろいろな工夫をしてくれた。例えば,部屋を寮と全く同じ構造にしたり,学習時間をはじめとする日課を,寮の時間と同じにするなど,それぞれの下宿の特徴を生かして,生徒の生活環境を整えた。ありがたい配慮である。
ところで,当然のことであるが,どの下宿でも,深夜に外出をすることを禁じる規則があった。しかし,規則を破るものがあり,下宿主が夜中まで起きて見張ることは,とうてい不可能であった。そこである下宿主が,赤外線センサーを塀に取り付けることを思いついた。これによって,生徒が夜中に出入りをすると,センサーが反応し,下宿主の部屋で音が鳴り,無断外出が防げると考えたわけである。
ところが,取り付けて三日目に,下宿主はセンサーを外してしまった。夜中に何度もピンポン,ピンポンと反応するので,夫婦が不眠症になってしまったためだと,その下宿主が,笑いながら話をしてくださった。
生徒に,このことを問いただすと,彼らいはく,「夜中に,猫がよく塀を飛び越えていましたよ。」と。なるほど,窮鼠,猫を噛むとはいうが,あべこべに一本とられたと,妙に感心してしまった。
24期生から寮生の数が自宅生を上回るようになったと記憶している。部屋が不足したために,教員の控え室まで改造して生徒の部屋にしたものだった。そして高Ⅲになると,全員寮を出て下宿生活を送らねばならない時代があった。当時この下宿生の指導が大変であった。下宿が市内に点在していたため,担任と下宿指導の教員は,車や単車で下宿訪問をした。土曜日の夜に訪問すると,面談したい下宿生がいない下宿もあった。夜の町へと出かけていたのである。翌日事情を聞くと,「ネオンがぼくを呼んでいるんです。」と答えた。
欠席をしている生徒を車で迎えに行ったこともある。風邪だということで,見舞いがてら訪問をしてみると,確かに布団に横になっている。下宿訪問のときには,いつも体温計を所持していたので,熱を計るよう指示をしておいて,部屋の中を観察していた。体温計を見てびっくりした。40度以上あるではないか。これは大変なことだと思って本人のほうを見ると,それほど苦しい様子でもない。頭に手を当ててみると,平熱である。おかしいなと思って,本人の顔を見ると笑っている。体温計を脇の下に入れて,こすったのである。当然のことだが,すぐに車に乗せて学校へ直行した。そんなこともあってか,わたしの車は,いつしか護送車と呼ばれるようになった。
今や立派な高Ⅲ寮が出来て,寮を出る心配もなく,安心して学校生活を送ることができるようになった。しかも高Ⅲ寮はやる気さえあれば,午前2時まで明かりをつけることができる。
恵まれた環境にいると,それに慣れっこになってしまって,過去の先輩たちの苦労は忘れ去られてしまう。自分たちが,先輩たちの積み重ねられた苦労の上にいるのだということを,時に思い出してみると,また新たにやる気を起こさねばという気持ちになりはしないだろうか。50年の伝統の重みとはそのようなことも言うのではないか。
世界的教養人と全人教育
愛光創立の理念である,われらの信条は,「われらは,世界的教養人としての深い知性と,高い特性を磨かんとする,学徒の集まりである。」で始まる。この中の「世界的教養人」とはどのような人物かということになると,これはそう簡単に言い尽くせることではない。
何年か前に,香港の管区長が本校を訪問した際,歓迎の挨拶を,生徒が英語でするということになった。生徒が,英文をチェックして欲しいということで,読み進むうち,「世界的教養人」のところだけが日本語のままであった。生徒と二人でいろいろな英語を当てはめてみたが,どうもしっくりこない。そうこうしているうちに,時間ばかりが経過し,頭を抱えてしまった。その時,今や教育の世界では,当然のごとく使われている「全人教育」という言葉が頭の中に浮かんだ。英語では,「The Whole Man Education」であったことを思い出し,「世界的教養人」に対して,「The Whole Man」という英訳をつけた。もちろん,この英訳では,不十分のそしりを免れない。もうそろそろ,「世界的教養人」の適切な英語表現を考えねばならない時期にきているのではないだろうか。