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チュータのひとりごと

2001年の最近のブログ記事

教務のひとりごと(45)

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 マイナスとプラスの関係(先週の続きです)

高校入学後もやはり放送部に入部してアナウンス部門を担当していた。高2の時,愛媛県高校放送コンテスト(現在も行われている)のアナウンス部門に初めて参加し,2位に入賞した。わたしもまた他の部員も予想もしなかった出来事に,うれしいというよりは,驚きの気持ちが大きかった。

 3位までが全国大会に出場できるということで,東京まで行かせてもらった。残念ながら全国のレベルは高かった。その年の優勝は立教女学院の生徒であった。声の質,発音,イントネーション,どれを取っても他を圧倒していた。
 翌年は愛媛県大会で優勝することが義務化されたようなもので,少々しんどい思いをしたが,何とか優勝を果たして全国大会に出場した。しかし,またしても,全国の厚い壁に阻まれた。

 結局,入賞することはできなかったが,放送部で活動したことは自分の将来にとって,ずいぶん役立つことになった。

 高校入学後,最初の数学の試験で欠点を取った話を先日紹介した。

 欠点を取ったのは,中学時代に2次方程式を習っていなかった結果,問題が解けなかったからであるが,わたしは決して中学校の数学の先生を恨んではいない。それは,2次方程式を学習していれば,自分の人生の中で燦然と輝く点数37点はなかったからである。

 これと全く同じではないにしても,小学校での入院経験が,大きく自分の生き方を変えることになった。

 人生,どこで何が起こるか分からないが,その時にはマイナスの出来事と思えることでも,自分の一生から見るとプラスになっていることが実に多いことに気がつく。

 数学や英語などの教科を苦手とすることは,学生時代によくあるマイナスの出来事である。しかし,大切なのは,苦手な状態に,ただ悩んでばかりいたり,苦手ゆえ,放りっぱなしにするのではなく,苦手をどう克服するかを工夫することである。そうすれば,おのずから,その解決策は見出される。マイナスの出来事が,何十年か経過してプラスの出来事になるようにするには,ただ待っているだけではいけないのである。
 

教務のひとりごと(44)

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マイナスとプラスの関係

 生徒たちが市の大会や県大会で活躍した報告をホームページで紹介しているが,今回は自分の高校時代のクラブ活動のことについて紹介してみたい。

 わたしは中学,高校と放送部に入っていたが,そのきっかけは次のようなものであった。

 小学校6年の夏休みに急性盲腸炎にかかった。興居島(ごごしま)には手術のできる病院がないので,直ちに市内のK病院に入院することになった。

 手術後,水を一滴も飲ませてもらえなかった辛さが今でも記憶にある。

 退院後しばらく安静にということで,笑ったり,くしゃみをすることもままならなかったが,無事2学期を迎えることができた。

 2学期が始まるとすぐに運動会の練習が始まった。術後間もないということで,わたしは見学をしなければならなくなった。

 その時,担任の先生から放送係をするように言われた。当時の行進曲にはレコードを用いており,このレコードの針を2~3曲かけるたびに取り替えねばならなかった。この作業を言いつけられたのである。

 運動会の練習中にレコード針の取替えをしていると,体育担当の先生が,「おまえ,ちょっとアナウンスもやってみい。」ということで,プログラムのアナウンスをすることになった。

 そして,中学校に入って放送部に入部し,番組制作や体育祭の放送を一手に引き受けて忙しく走り回った。

つづく  

 信頼(先週のつづきです)

 ある時,A部長は塾(寮)の隣にある自宅にわたしを呼んで,塾(寮)で父母会を開くのでお菓子を用意するように言った。その時,「このようなお菓子がいいんではないか。」と言って,応接室のテーブルの上に置いてあった器の中から菓子を取り出した。後で分かったのであるが,レーズンウイッチという菓子であった。

 わたしはこの時,「このような」という言葉を即座に「この」と置き換えた。幸い,レーズンウイッチを包んでいる透明のビニールにK店の名前を見つけた。店は自由が丘にあることが分かり,わたしはこの菓子を買うため,東名高速道路を経由してこの店に出かけた。

 翌日,この菓子を持って,部長のところに行き,「お菓子が手に入りました!」と言うと,部長は驚きと喜びの表情を顔に表して,「うん。」とうなずいた。

 この時から,部長のわたしに対する態度は明らかに変化したように思う。

 部長が中学部を去り,高等部長になるとき,お別れの言葉の中で,わたしのことを一言誉めてくれた。これを聞いた年配の先生が,「わたしは長年A部長と一緒に仕事をしてきたが,部長が教員を誉めたことは一度もなかった。君はいったいどのようなことをしたのか。」と尋ねた。わたしは「多分お菓子でしょうね。」と答えたが,その先生はおそらく何のことかは理解できなかったであろう。

 わたしはこの時から,どのようにすれば人が心を動かすかを考えるようになった。

 あたり前のことをあたり前にやっていては,人の心を動かすことはできない。

 人の心を動かすためにどんなことをすべきか,日々奮闘努力する中に,教師の苦労や楽しみもあるのではなかろうかと述べて今回の「ひとりごと」を締めくくりたい。


 
  信頼

 以前この教務日誌でふれた東京の私立中学に勤務していた頃のことについて,この中学校のA部長(校長)との思い出を紹介したい。

 A部長は生徒にはとてもやさしい先生であったが,教員には非常に厳しい先生であった。わたしは教師生活の中で,生徒指導のことで二度A部長から怒鳴られた経験がある。

 ところが,不思議なもので,怒鳴られても少しも不愉快にはならなかった。それは,内容が怒鳴られても仕方のないことであったからではない。わたしはA部長から注意を受けていると,経験の少ない自分が鍛えられているという気になったのである。

 おそらく,それはA部長の人格にわたしがほれ込んでいたからであろう。

 わたしは英語科の一員であると同時に,塾(寮)の舎監もしていた。A部長は中学部の責任者であるとともに,塾(寮)の責任者でもあった。毎朝,塾(寮)生の状況報告をするのがわたしの日課であった。部長室にわたしが入る時,部長に報告事項のある先生が何名かドアの外で待っていた。寮生の報告をしているときに部長の朝の気分が良好であるかどうかは,瞬時に分かった。

 わたしは部長室を出ると,待っている先生方に○か×のサインを送った。そのサインによって先生方は部長室に入室するのを遅らすかどうか決めた。

 部長は低血圧気味で,特に午前中,機嫌の悪いことが多かったのである。

つづく 
  挨拶

 これも興居島(ごごしま)での話である。

 どういう理由で始めたのかはよくわからないのだが,わたしは小学5年生から中学2年生まで,新聞配達と乳酸菌飲料の配達をしていた。家が理髪店だったので商売のことに多少の興味があったのかもしれない。

 毎朝(当時,休刊日はなかった),始発の船が朝6時に港に着くのを待って配達を始める。島内の二つの地域(由良,門田)がわたしの担当区域であった。最初は自転車で配達をしていたが,弟も配達をすることになり,一台しかない自転車を弟に譲ったため,わたしは徒歩で島内を駆け巡った。

 特に冬の寒い朝は,「こりゃー,たまらんなー。」と思いながらも,何とか4年間続けることができた。

 徒歩で新聞配達をすると,配達に時間を要するため,当然のことであるが,島民に出会う機会が多くなる。そうすると,お互いに朝の挨拶を交わすようになる。この挨拶が何とも言えないほど気持ちのよいものであった。

 また,朝の挨拶だけではなく,「小さいのにえらいのー。」とか,「挨拶ができて感心じゃのー。」と声をかけられると,ついうれしくなったものである。

 この4年間の朝の体験が,わたしの挨拶の習慣を形作ったように思われる。挨拶は自分の日常生活から自然に学んだものである。そして,声をかけることがどれだけ相手の心を和ませるかということも,この島での経験から学んだことである。

 声をかけられることを待っている生徒がいることを教師は忘れてはならない。

 タイミングよくかけられた声と,適切な言葉がどれだけ生徒の気持ちを救うことになるかということを頭で理解できていても,いざとなると,なかなかうまくいくものではない。しかし,声をかけているうちに,うまく生徒の心をつかめたと思う時が何度か出てくる。この経験を積み重ねることによって適切な時に適切な言葉をかけることができるようになるのである。

 それには生徒とじかに接触する機会が多ければ多いほど良いということは,言うまでもないことであろう。



 進学主任の一色康孝先生(理科)は17期の卒業です。

 
 「挨拶」と「昼休みチェック」 先週のつづきです。

 担任をしているとき,特にクラスの生徒の朝の挨拶を気にしていた。廊下で会ったときの声の調子がよいかどうかで生徒のそのときの状況が分かるからである。よく先輩の先生が,「朝のホームルームの時間に個々の生徒の顔をよく見て,生徒の体調や,精神状態を把握しなければならない。」と言っていたが,わたしは,このことについては未だに教師として自信がない。その代わりと言うわけではないが,わたしはできるだけ多くの生徒に声をかけることにした。直接声を聞いて生徒の様子を確かめたかったのである。しかし,1日に声をかけることのできる生徒の数は限られている。

 このとき,ひらめいたのが昼休みのノートチェックである。職員室でノートの点検をしていると,何となく味気ない。問題点があっても直接伝えるには時間がかかる。後で職員室に来るように伝えても,忘れることがある。昼休みのノートチェックは,これらを一気に解決してくれる上に,個々の生徒に声をかけることができるという素晴らしい利点があるではないかという考えが頭をよぎった。

 昼休みは昼食の時間であることは事実である。そんな時間まで利用して,ノートチェックをするのはどうかという意見もあるであろう。

 しかし,問題は,このノートチェックを生徒がどのように思うかである。

 昼休みの時間までさいてチェックする先生に対して,生徒は「そこまでされたら,提出をしなくては。」と思うのではなかろうか。このような教師のやる気を,冷めた目で見ながら通過していく生徒は,この学校にはいないとわたしは信じている。

 わたしの昼休みチェックは,「声をかけるにはどうしたらよいか。」という問題点を解決しようとすることから始まった。

 現在,数名の先生がこの昼休みチェックを行っているが,それぞれわたしとは,また違った意味と目的をもってやっているのであろう。力いっぱいの声援を送りたい。

 

 「挨拶」と「昼休みチェック」

 わたしは1カ月に2,3度生まれ故郷の興居島(ごごしま)に帰る。船の最終便が7時45分であるため,用が長引くと定期便がなくなるので,海上タクシーを利用して松山市内に帰ってくる。

 夜遅くなると,市街地と違って道路は照明が十分でないため,挨拶を交わしたとき,島の人であるということは分かっても,よほど聞き慣れた声でなければ,どこの誰かはほとんど分からない。

 ところが,島民のほとんどが,すれ違うとき,「こんばんは。」と声をかける。わたしの幼い頃の記憶に残っている慣習がそのまま受け継がれているのである。

 夜の島内は静まりかえっていて,下駄でも履いていようものなら,「カランコロン」とかなりの音が響く。したがって,「こんばんは。」という声もかなり大きな声となって響く。その声の響きを聞くと何となく心がなごむのは,自分がこの島の出身であるということが確認できた安心感のせいであろうか。

 朝,車から降りて職員室へ向かう途中に生徒と顔を合わせたとき,わたしは大きな声で「おはよう。」と声をかける。どちらが先ということはない。お互いに交わす朝の挨拶は気持ちが良く,その日の活動のエネルギーになるように思われる。時に元気のない声や,挨拶が返ってこないことがあると,「あれっ,今の生徒はどうしたんだろうなあ。」と何となく心配になって,それからしばらくの間,その生徒のことが,気になる状態が続くのである。

 つづく。

 自己を高める

 「生徒は教師を選ぶことができない。また教師も生徒を選ぶことができない。教師と生徒の出会いはまさに運命的なものと言えよう。」

 これは以前,『ひとりごと』の中で述べた文言である。この地球上に生を受けた60億の人間の中で,日本という国に生まれ,さらに愛媛の松山の地にいるというのも不思議と言えば不思議である。しかも,その中の愛光という学校で担任とクラスの生徒という形で出会うのはいかにも不思議な縁と言えるのではないだろうか。

 よくご父母から,「うちの子供は某先生とそりが合わないもので....」という言葉を聞く。

 その時,わたしは即座に,「そのような先生こそお子さんが学ぶべき人ですよ。」と返答する。

 それは,自分を人間的に高めようとすれば,自分と気が合う人よりも,むしろ,自分と何となくうまくいかない人の考え方から学ぶことのほうが多いからである。もちろん,気の合う人とうまくやっていくほうが,話は早く進むし,気分的にも楽しい。しかし,落ち着いて考えてみると,うまく事が運んで気も楽に思える一方で,自分への批判もなく,現状のままで,少しも成長のない自分に気が付く。

 人は読書によって,自らを高めるとよく言われるが,読書以外に,考えの異なったいろんな人々と直接接触することによって自らを高める方法もある。

 意見を異にする人と議論をしていると,事はなかなかはかどらないように思えるが,しばらく時が経過すると,自分のいたらなさに気付いたり,新しい考えに触発され,ひとまわり自分が成長した実感を得るのである。いわゆる許容力の増大した自己をそこに見いだすとでも言えばよいだろうか。

 生徒が教師を通して立派な人間に成長するのは,教師のもつさまざまな人格に直接触れるからである。もちろん,教師も生徒を通して,より人間的深みのある人格を形成しているのであるが。

 

教務のひとりごと(37)

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  初めて出会うもの

 興居島(ごごしま)には,小学校が2校ある。由良小学校と泊小学校である。中学になると,この2校の生徒が合流し,興居島中学へと進学する。

 わたしは由良小学校に入学したのだが,入学してまもなく音楽に悩まされることになった。それは音符を読めなかったからである。おたまじゃくしが五線紙の上で踊っているのが全く理解できなかった。音楽はわたしにとって異次元の世界の出来事であったようだ。

 戦後の食べる物にも事欠く時代に生まれたためもあって,そもそも音楽に親しむなどという余裕は全くなかったと言ってよい。

 当時は,夏は海で泳ぎ,冬は山に入って暖房の燃料となる「松かさ」を拾い集めるのが日課であった。あとは毎日釣りざおをもって岸壁に座り,釣糸を垂れる。スポーツはソフトボールのみであったような気がする。このような環境の中で音楽という全く経験のない世界にとまどいを覚えたことは容易に理解してもらえるだろう。

 生徒が英語に初めて接するとき,わたしが小学1年生のときに音楽に対して抱いた気持ちと同じ気持ちを持つのではないかと思うこともあって,新しい文法事項を教えるとき,わたしは教授法を慎重にしている。

 生徒の顔は正直である。理解できれば,顔に笑みが浮かぶが,理解できないといつまでも渋い顔をしている。教室全体に笑みが浮かぶまで,手を変え品を変え説明を続ける。こうして,教師は説明のよりよい方法を生徒を通して学ぶのである。それが経験の差という形になって表れる。年齢とともに教え方がうまくなるのではない。生徒が理解できたときに浮かべる笑みを感じ取ろうと,常に工夫する経験の積み重ねが,うまい教え方となるのであろう。

 最近中学生を教えることが多くなったためか,このことを強く意識する毎日である。

高校部中庭にクレーン車登場!工事に用いられた機材を中庭から撤収しています。

 
  団体競技としての受験

 課題の提出ということについて,わたしは次のような考えをもっている。

 生徒が「自分一人くらいは提出しなくてもよいだろう。」と思うのと,「自分一人から提出は始まるのだ。」と考えるのとでは,全く違った雰囲気がクラスに出来上がる。すべて一人の考え方から始まり,集団の動向が決まるのだということを生徒が意識できるように指導をする必要性を痛感している。

 高3の生徒を前にして受験勉強について話すとき,わたしはいつも受験を団体競技にたとえてきた。

 個々の生徒が,50名いる仲間の中の一人を形成しているのだという意識が大切なのである。人間は個でありながら,類の中の一部を形成しているという意識を作り上げるのは確かに難しい。個としての自分を確立し,さらに進んで類としての自分が意識できることを,わたしは団体競技と呼んでいるのである。

 高3生にとって,体育大会はクラスのまとまりを作り上げるのに大いに貢献している。この体育大会から生まれたまとまりが,高校生活の残された期間を全員で学習に向かおうとする姿勢を作っているような気がする。その観点から今年の高3生を振り返ってみると,アトラクションの場面のみならず,全体としてよくまとまっていたように思う。

 学習に最適な10月に入った。残された3,4カ月間の団体競技的な学習が大学入試の結果に大きな影響を与える。44期生に期待して力一杯の応援をしたい。

 

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