愛光学園

60周年特別企画ページはこちら

WWW を検索 愛光学園サイト内を検索

チュータのひとりごと

2001年10月アーカイブ

 「挨拶」と「昼休みチェック」

 わたしは1カ月に2,3度生まれ故郷の興居島(ごごしま)に帰る。船の最終便が7時45分であるため,用が長引くと定期便がなくなるので,海上タクシーを利用して松山市内に帰ってくる。

 夜遅くなると,市街地と違って道路は照明が十分でないため,挨拶を交わしたとき,島の人であるということは分かっても,よほど聞き慣れた声でなければ,どこの誰かはほとんど分からない。

 ところが,島民のほとんどが,すれ違うとき,「こんばんは。」と声をかける。わたしの幼い頃の記憶に残っている慣習がそのまま受け継がれているのである。

 夜の島内は静まりかえっていて,下駄でも履いていようものなら,「カランコロン」とかなりの音が響く。したがって,「こんばんは。」という声もかなり大きな声となって響く。その声の響きを聞くと何となく心がなごむのは,自分がこの島の出身であるということが確認できた安心感のせいであろうか。

 朝,車から降りて職員室へ向かう途中に生徒と顔を合わせたとき,わたしは大きな声で「おはよう。」と声をかける。どちらが先ということはない。お互いに交わす朝の挨拶は気持ちが良く,その日の活動のエネルギーになるように思われる。時に元気のない声や,挨拶が返ってこないことがあると,「あれっ,今の生徒はどうしたんだろうなあ。」と何となく心配になって,それからしばらくの間,その生徒のことが,気になる状態が続くのである。

 つづく。

 自己を高める

 「生徒は教師を選ぶことができない。また教師も生徒を選ぶことができない。教師と生徒の出会いはまさに運命的なものと言えよう。」

 これは以前,『ひとりごと』の中で述べた文言である。この地球上に生を受けた60億の人間の中で,日本という国に生まれ,さらに愛媛の松山の地にいるというのも不思議と言えば不思議である。しかも,その中の愛光という学校で担任とクラスの生徒という形で出会うのはいかにも不思議な縁と言えるのではないだろうか。

 よくご父母から,「うちの子供は某先生とそりが合わないもので....」という言葉を聞く。

 その時,わたしは即座に,「そのような先生こそお子さんが学ぶべき人ですよ。」と返答する。

 それは,自分を人間的に高めようとすれば,自分と気が合う人よりも,むしろ,自分と何となくうまくいかない人の考え方から学ぶことのほうが多いからである。もちろん,気の合う人とうまくやっていくほうが,話は早く進むし,気分的にも楽しい。しかし,落ち着いて考えてみると,うまく事が運んで気も楽に思える一方で,自分への批判もなく,現状のままで,少しも成長のない自分に気が付く。

 人は読書によって,自らを高めるとよく言われるが,読書以外に,考えの異なったいろんな人々と直接接触することによって自らを高める方法もある。

 意見を異にする人と議論をしていると,事はなかなかはかどらないように思えるが,しばらく時が経過すると,自分のいたらなさに気付いたり,新しい考えに触発され,ひとまわり自分が成長した実感を得るのである。いわゆる許容力の増大した自己をそこに見いだすとでも言えばよいだろうか。

 生徒が教師を通して立派な人間に成長するのは,教師のもつさまざまな人格に直接触れるからである。もちろん,教師も生徒を通して,より人間的深みのある人格を形成しているのであるが。

 

教務のひとりごと(37)

|
  初めて出会うもの

 興居島(ごごしま)には,小学校が2校ある。由良小学校と泊小学校である。中学になると,この2校の生徒が合流し,興居島中学へと進学する。

 わたしは由良小学校に入学したのだが,入学してまもなく音楽に悩まされることになった。それは音符を読めなかったからである。おたまじゃくしが五線紙の上で踊っているのが全く理解できなかった。音楽はわたしにとって異次元の世界の出来事であったようだ。

 戦後の食べる物にも事欠く時代に生まれたためもあって,そもそも音楽に親しむなどという余裕は全くなかったと言ってよい。

 当時は,夏は海で泳ぎ,冬は山に入って暖房の燃料となる「松かさ」を拾い集めるのが日課であった。あとは毎日釣りざおをもって岸壁に座り,釣糸を垂れる。スポーツはソフトボールのみであったような気がする。このような環境の中で音楽という全く経験のない世界にとまどいを覚えたことは容易に理解してもらえるだろう。

 生徒が英語に初めて接するとき,わたしが小学1年生のときに音楽に対して抱いた気持ちと同じ気持ちを持つのではないかと思うこともあって,新しい文法事項を教えるとき,わたしは教授法を慎重にしている。

 生徒の顔は正直である。理解できれば,顔に笑みが浮かぶが,理解できないといつまでも渋い顔をしている。教室全体に笑みが浮かぶまで,手を変え品を変え説明を続ける。こうして,教師は説明のよりよい方法を生徒を通して学ぶのである。それが経験の差という形になって表れる。年齢とともに教え方がうまくなるのではない。生徒が理解できたときに浮かべる笑みを感じ取ろうと,常に工夫する経験の積み重ねが,うまい教え方となるのであろう。

 最近中学生を教えることが多くなったためか,このことを強く意識する毎日である。

高校部中庭にクレーン車登場!工事に用いられた機材を中庭から撤収しています。

 
  団体競技としての受験

 課題の提出ということについて,わたしは次のような考えをもっている。

 生徒が「自分一人くらいは提出しなくてもよいだろう。」と思うのと,「自分一人から提出は始まるのだ。」と考えるのとでは,全く違った雰囲気がクラスに出来上がる。すべて一人の考え方から始まり,集団の動向が決まるのだということを生徒が意識できるように指導をする必要性を痛感している。

 高3の生徒を前にして受験勉強について話すとき,わたしはいつも受験を団体競技にたとえてきた。

 個々の生徒が,50名いる仲間の中の一人を形成しているのだという意識が大切なのである。人間は個でありながら,類の中の一部を形成しているという意識を作り上げるのは確かに難しい。個としての自分を確立し,さらに進んで類としての自分が意識できることを,わたしは団体競技と呼んでいるのである。

 高3生にとって,体育大会はクラスのまとまりを作り上げるのに大いに貢献している。この体育大会から生まれたまとまりが,高校生活の残された期間を全員で学習に向かおうとする姿勢を作っているような気がする。その観点から今年の高3生を振り返ってみると,アトラクションの場面のみならず,全体としてよくまとまっていたように思う。

 学習に最適な10月に入った。残された3,4カ月間の団体競技的な学習が大学入試の結果に大きな影響を与える。44期生に期待して力一杯の応援をしたい。

 

2013年1月

    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31    

アーカイブ

All Rights Reserved Copyright AIKOU educational institution