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チュータのひとりごと

2002年の最近のブログ記事

今のマイクは,昔と違って,できるだけ近くで話すほうが良いということを,前日会場の音響担当者から聞いていた。わたしは,第45回の「教務のひとりごと」でも触れたことがあるが,高校時代にアナウンスの勉強をしたことがある。従って,マイクの前でしゃべった経験は数多い。マイクに向かってしゃべる時に,わたしが特に気をつけるのは,「サ行」の発音である。破裂音が強いと,日本語は聞きづらくなる。英語の発音がうまいプロのアナウンサーの日本語の発音が聞きづらく聞こえるのは,この理由による場合が多い。わたしは,高校時代から,この「サ行」の発音にこだわったために,英語の「c」の発音に今でも苦労している。

あまりマイクに近いと,この破裂音が,会場に響くので,できるだけ,マイクの位置が自分の口の真前にくるようにしておいて,少し距離を置くという形を取ったが,礼をした時に,大きく前へ頭を傾けてしまったので,眼鏡がマイクに当たったのである。

司会者の席からは,司会の声が会場でどのように聞こえているのかは,残念ながらほとんど分からない。このことは本校の体育館の舞台に立つとよく分かる。体育館の舞台で話す人の話は,同じ舞台に立っている人には,何をしゃべっているのか分からないほど聞きづらいと言ったら,状況がよく分かるかもしれない。モニターのスピーカーがない限り,舞台上の人には同じ舞台に立っている人の声は聞きづらいのである。

司会が直接関わったことではないが,ボニファシオ管区長から,休日のプレゼントの発表があった時,舞台の上で,学校長とビセンテ・アリバス神父様と3人で相談をする場面があった。あの舞台上でどのような会話が行われたのかは,まだ尋ねていない。

管区長の「明日を休日にします。」という英語が会場に響くと,一斉に拍手が起こった。その後,学校長から日本語で,同じ内容が告げられると,一段と大きな拍手が起こった。突然の発表であったので,生徒たちも,にわかには信じられなかったのであろう。この後,担任に,「本当ですか?」と質問する生徒たちがかなりいたようである。自宅生のご父母は,生徒よりももっと信じられなかったのであろう。学校へ問い合わせの電話が10件を超えてかかってきたとのことである。これでは徹底を欠くことになってはいけないと判断し,緊急連絡網を使って自宅生に連絡をするよう,教務からクラス担任に依頼をし,その日のホームページにも「お知らせ」として掲載をした。


 「教務のひとりごと」は,今回が年内の最終回です。来年の1月12日(日)に再開いたします。 

どのような式典でも,プログラムを進めていくうえで,予想のつかないちょっとしたハップニングは起こるものであるが,今回の50周年記念式典でも,そのようなことがあったので,自分が担当した司会を反省するという意味もこめて触れてみたい。

式典は,会場の生徒にとっては,まさしく「ぶっつけ本番」であったと言ってよい。わたしが司会者として気になったことのひとつに,どこで拍手をするかということがあった。直前に拍手の練習をするということも考えたのだが,不自然な気がしたので,「司会者に合わせて拍手をしてください。」と,式典の始まる5分前に参会者にお願いをした。

会を進めていく途中,このようなことを直前に言う必要は全くなかったと思った。それは,たとえ,司会者が拍手をしなくても,来賓の話に拍手をすることくらいの常識は,参会者が持ち合わせていたということである。また,来賓の話の内容がそれぞれ,自然に拍手を呼ぶものであったということもある。

来賓の祝辞の最初は,ボニファシオ・ソリス管区長であった。英語のスピーチということもあって,わたしはやや緊張していた。英語のメッセージとその日本語訳という形で無事に終了した後,ややほっとした気分になっていた。これがいけなかった。

次の来賓は深堀敏高松司教区長で,紹介を終えて神父様が演壇の前に進まれた後,「礼」という号令をかけ忘れてしまった。深堀神父様がすっと「礼」をしてくださったので,会場の生徒たちも,自然に「礼」ができたようである。内心,「しまった。」と思ったが,すでに「礼」が終わっているのに,また,「礼」という号令をかけるわけにはいかない。

途中でこのようなことがあると,司会者は非常に気になり,次のミスを誘発することがよくある。深堀神父様の祝辞が終わり,「礼」と号令をかけて,自分も「礼」をしたとたん,今度は眼鏡のレンズがかなりの強さでマイクに当たった。会場にもその接触音は響いたはずである。前の席に座っていた中学生はこのことに気づいたようであった。

つづく

教務のひとりごと(77)

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 もう一つわたしが気をつかったことがある。それはボニファシオ・ソリス管区長が式典に列席してくださることであった。最初は,神父様のご都合でメッセージだけが送られてくると聞いていた。しかし,ご本人がお見えになることが決定し,ありがたいことであるとみな大喜びした。

管区長は英語に大変堪能であると聞いていたので,メッセージが英語になることはある程度予想できた。生徒たちが英語を学習しているので,英語でメッセージをと考えてくださったようである。

ボニファシオ神父様の紹介は最初日本語でした後,英語でもすることにした。日本語の紹介が終わった後,本校の教員が演壇までご案内する手はずが整っていたのだが,日本語の紹介が終わるとすぐに,神父様は演壇に向かって一人で進まれた。本校の教員が舞台に出てこないので,打ち合わせが変わったのであろうと思いながら,英語で紹介を始めた。後で聞くと,本校の教員が舞台の袖で案内に向かおうと思った瞬間,神父様が一人で演壇に向かわれたため,舞台に出るタイミングを逸してしまったことが分かった。

神父様の英語のスピーチは,中学生には少し難しかったのではないだろうか。会が終わったあと,高校生がやってきて,「実際のスピーチの要点をまとめて,少し短くしていましたね。」とわたしに話しかけてきた。高校生にはよく理解できていたようである。

式典の第1部は1時間を要した。この間,生徒たちは私語をすることもなく,厳粛な雰囲気の中で,学校長の式辞や来賓の祝辞に耳を傾けていた。

第2部は本校の高校部生徒会長と中学の女子生徒の司会で始まった。第2部は,高1E組の女子生徒による「創作ダンス」,生徒有志による「AIKOソーラン」の演技が行われ,会場は一気に盛り上がった。「生徒代表謝辞」で雰囲気が厳粛なものに戻り,その後,司会を生徒とタッチして,フェリペ・ミゲレス理事長の司式による「神の祝福を乞う祈り」,「校歌斉唱」,「閉式の辞」と続き,50周年の式典を無事終えることができた。

教務のひとりごと(76)

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愛光学園創立50周年記念式典(1)

 11月20日(水)に県民文化会館で愛光学園創立50周年記念式典が挙行された。総務の青葉厳治先生が中心となって案を練ってきたが,その作業は傍で見ていても,大変な苦労であったと容易に推察できる。

 わたしは,第1部と,第2部の途中からの司会をするよう頼まれた。頼まれると,つい,「いいですよ。」と答えるいつもの悪い(?)癖がここでも出てしまった。マイクの前でしゃべるのは,あまり苦にはならないのだが,それは,聴衆が前にいないときの話である。やはり,人前でしゃべるのは緊張する。ただ,わたしは60周年を現職で迎えることはできないことに気付き,教師生活の最後の記念式典になると思って引き受けた。

 式典の司会をするにあたって留意したことがある。式典は雰囲気が非常に硬いものになるのが常である。たとえば,「開式の辞」という言葉を,そのまま,司会者が大きな声で「開式の辞」と言うのも一つの言い方であると思うが,硬い雰囲気がなおさら硬くなる。今回の式典では,これを,「教頭から開式のことばがあります。」とした。芳野敬三教頭も,この言葉を受けて,自分の考えを表明する「開式の言葉」を工夫したと聞いた。厳粛な中に,少しでも柔らかな雰囲気を出せればと思ったのだが,会場の人たちが本当にそのように感じたかどうかは,分からない。

 また,来賓の祝辞の後に,全員が拍手をするのは自然の流れである。この拍手の後に,司会から,「ありがとうございました。」というお礼の言葉を述べるのを今回は控えた。会が間延びしないようにとの配慮と,拍手が充分に謝意を表していると思ったからである。

 今回わたしが難しいと思ったのは,しゃべる言葉ではなく,「礼」という号令である。式典の中で,何度「礼」という号令をかけたか覚えていないほど回数も多かったが,号令をかけるタイミングが難しかった。司会用のマイクは固定マイクである。中央の演壇の方向を見ると口の位置がマイクの正面から外れる。しかし,演壇の方向を注意して見ていないと,号令のタイミングを誤ってしまう。ふだん,このような号令をかけたことがないこともあって,最も気をつかったことであった。

   つづく

教務のひとりごと(75)

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英語検定(2)

 愛光に来て,校外模試なるものの存在を知ったが,当時も現在も,校外模試が実施されているのは,中3から上である。

 何か,中2でよい刺激剤になり,実力アップにつながるものはないかと考える中で,この「英検」を思い出した。本校には寮生がいるため,校外の受検場を勧めることは困難である。そのような中で,英語科で相談した結果,学校で団体受検をすることになった。(現在は高3の英語を担当している竹村司郎先生が「英検」の責任者となっている。)

 中1で4級,中2で3級,中3で準2級,高1と高2で2級を受ける生徒が多い。もちろん希望者受検であるが,中1生,中2生は,ほぼ全員が受検する。中1の4級については,合格率はほぼ100%,中2の3級の合格率は常に95%を超える。以前は「英検」用に,何か特別な指導をすることはなかったが,最近,ほんの少しではあるにしても,生徒の弱点指導をし始めたようである。

 「英検2級」以上の資格を持っていると,推薦入試や,ごく一部の大学入試に有利に働くケースがある。最近は「英検」だけでなく,さまざまなタイプの試験が,それぞれの目的に合わせて,実施されている。

 全国の中・高一貫の学校を見ると,中3で全員に2級をチャレンジさせる学校があるようだが,わたし個人としては経験上,賛成できない。それは,学校の授業以外の学習を,それも,かなりの量の内容を習得しなければ合格できないからである。

 すなわち,中3で英検2級に合格するためには,特別補習を組み,特訓を必要とする。前任校のように,英語を目玉にして生徒を鍛えるのであれば,問題はない。しかし,本校のように難関大学受験を目指す生徒にとっては,英語にあまりにも力を入れ過ぎると,他の教科の学習に影響が出ることは免れない。

 従って,本校の学習のペースからして,中3が準2級,そして,英検2級は高1が適正な学年であるとわたしは考える。

教務のひとりごと(74)

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10月19日の土曜日に,久しぶりに英語検定試験の監督をした。

自分が英語教師としてどのように「英検」にかかわってきたかを思い出すまま紹介したい。

 33年前,前任校であるT学園の中学部に英語教師として赴任したとき,生徒たちが,すでに「英検」を受検していたかどうかは,はっきりと覚えていない。しかし,「英検」を受けるために特別補習を導入したのは,その中学部でわたしが初めてであった。当時,中2で3級,中3で3級と2級にチャレンジさせていたように記憶している。

 T学園は外国帰りの生徒も多く,また英語に興味を持っている生徒もかなりいた。当然,外国人英語教師による英語指導も行われていた。

 そのような環境の中で,生徒に「英検」を受けるように勧めることは,それほど難しいことではなかっただろう。

 受けるからには全員が合格することを望むのは,教員として,ごく当たり前のことである。しかし,学校の授業だけでは,合格がやや難しいことが「英検」の過去問を見て分かった。当時,マクミラン社の「English 900」を教科書として使用していた。口語英語は十分対応できるが,語法・文法では,かなり不足していた。

 補習を行うと告げると,受検を希望する生徒たちは全員が受講した。過去の問題を分析し,何が不足しているのかを十分に調べた上で,徹底した指導をした。

 その結果,中2で3級をパスするのは,それほど難しいことではないことが結果を見て分かった。また中3で2級に合格することも可能であることも分かった。生徒たちは自分の級が上級になるにつれて,「英検」を受けることを楽しみにするようになり,中3で2級にチャレンジする生徒が増え,合格者も増加した。また3級は中2の受検者がほぼ全員合格していた。

    つづく

結局,両者が見通しのきかない交差点で徐行をしなかったということで,互いに弁償はなしということで決着した。

当時の車は頑丈に作られていたのであろう。サイドミラーを元にもどしただけで,事故の痕跡がほとんど車に残らなかったことが,今でも人生の不思議な出来事の一つとして残っている。

自分だけは事故に遭わないと思うのは,危険である。運転経歴が長くなればなるほど,いつ事故が起こっても不思議ではないと思うようになった。自分の子供が運転するようになり,子供には車に乗るとき,事故は運転のうまい,下手で起こるのではないと,しつこいくらいに,繰り返し言っている。

「相手の運転の心が読めるようになって初めて事故は減る。」とわたしは思っている。「車の動きを見て,相手の車の運転手が何を考えているか,理解できるようになるには,相手に合わせていこうという気持ちがあれば,そう年月のかかることではない。」と思いつつ,人生55年を迎えたが,何歳まで生きたとしても,相手に合わすことの難しさは,克服できないような気がしてならない。

もう一つ,自分の運転経験から言えることがある。定員全員が乗車したときに,車に性能いっぱいの運転を強要すると,車が普通では考えられないような動きをすることがある。われわれの仕事においても,自分の能力のすべてを必要とする仕事をしているときに,無理をすると必ず体調をくずすのと,よく似ているような気がする。

 運転

「しまなみ海道ウォーキング」の時に,乗車定員8名の車に8人が乗ったのは初めての経験であった。ブレーキが少し利きにくい(制動距離が長くなる)ことを除けば,そう運転技術を変える必要はなさそうである。もちろん,ブレーキが利きにくいなどと言えば,乗車している教職員に不安を与えると思って,一言も触れなかったが。また,来島海峡大橋の上で,妙にハンドルを取られるように感じたのは,ただ単に風のせいだったのであろうか。38年間も運転をしていると,いろいろな経験をする。

思えば,わたしが運転免許を取得したのは,17歳(高校2年生)の時であった。もちろん当時は軽自動車免許である。

車を運転することが好きであったこともあるが,長期の休暇中にアルバイトをするためでもあった。ちなみに,現在,愛光生はアルバイトをすることを禁じられている。

長期休暇になると,松山市内のお菓子の材料を扱う会社でアルバイトをした。市内にある大小のお菓子メーカーに,車で材料を配達するのがわたしの仕事である。わたし専用の配送車を与えられていた。おかげで今でも,市内のお菓子を製造するメーカーの名前と場所が,記憶の中に残っている。

長期休暇中,毎日運転するのであるから,事故に遭う確率が高くなる。ちょっとした事故は,あったかもしれないが,忘れてしまった。しかし,「事故ゼロの日」に引き起こした事故については今でも鮮明に覚えている。

車はマツダの「ミゼット」という軽三輪車であった。いつものように,荷物を乗せて市内を運転している途中,伊予鉄「古町駅」近辺の市道の交差点で両者が徐行運転をしなかったために事故は起こった。
 
 相手の車も同じ三輪車であったため,衝突後,両方の車が横転した。わたしの車には,助手席にアルバイト先の社員が乗車していたのだが,左側を下にして横転したために,わたしが上に乗っかかる形になった。呆然としているわたしに向かって,「早くドアを開けろ」と指示が飛んだ。わたしは,それに応えて,ドアを上に向かって開けた。車のドアを上に向けて開けたのは,後にも先にも,この一度だけである。

つづく

 
 しまなみ海道ウォーキング(2)

先週,「しまなみ海道ウォーキング」の天候のことについて触れたが,この行事には,次のような出来事もあったので,付け加えて締めくくりとしたい。

この行事のために,3名の同窓生医師が事故に備えて本部に待機をしてくれていた。しかも,在校生のためにと,ボランティアでの参加であった。熱中症に備えて,点滴を用意していたとのことである。

万一に備えて救急車配備のシュミレーションも行われていた。

わたしの車が学校を出発したとき,空は晴れていたが,吉海町に近づくにつれて前方の空を黒雲が覆い始めた。ある程度予想していたとは言え,雨が避けられないことを覚悟しなければならなかった。

吉海町の「町民会館」に到着したときは,まだ曇りの状態ではあったが,昼食後,パラパラと雨が落ち始めた。「小雨決行」と決まってはいたが,雨が生徒にどのような影響を与えるのか,心配であった。

ハザードランプを点滅させて徐行をしながら,雨の中を歩いている生徒の様子を観察していたが,心配はないように見えた。こちらが心配するほどには,雨は生徒に影響を与えないのであろうか。そのような不安を抱きながら,徐行運転している時に,パトロールカーに呼び止められた。わたしの車が故障しているのではないかと思われたようである。理由を説明して巡回を続けた。生徒が全員,「吉海町民会館」を通過したことを確認した後,最終ゴールの「糸山公園」に向かった。

最終ウォーカーがゴールに到着したのは17時20分頃であった。最終ゴールの班員をチェックした後,事故者ゼロが報告された。

3人の同窓医師は,「降雨があったため,熱中症の生徒が出なかったのが幸運であった。」と強調した。雨の中を歩いた生徒や教師は,それなりに大変であったろうと想像できるが,この日は天の采配の妙を感じざるを得なかった。

しまなみ海道ウォーキング(1)

愛光創立50周年記念行事の一環として,9月27日(金)に,「しまなみ海道ウォーキング」の一大行事が実施された。

天候については,1週間前からインターネットの「ヤフー天気予報」と「ヤン坊マー坊天気予報」の情報をチェックし,変化する予報に一喜一憂しながら,当日を待った。

 前日の予報では,27日(金)当日の東予の午前中の降水確率が30%であったが,当日午前5時のピンポイント予報では,吉海町の降水量は1日中,ゼロであった。

あるとき,テレビ局の気象予報士が個人的な見解と断った上で,「降水確率が40%では雨が降らない。50%になると雨が降ることもあれば,降らないこともある。60%だと,雨が必ず降ると思ってよい。」とわたしに語ってくれたことがあった。

 東予地方の当日午後6時の降水確率は,60%であったように記憶しているが,生徒が歩く間は,雨が降ったとしてもあまり大したことはないであろうと判断した。(実際には天気のくずれが予報よりも早かったようである。)また,この日,注意報はまったく出されていなかった。

 当日のわたしの役目は,遅刻や欠席している生徒に連絡を取り,確認をした上,本部に連絡を取り,その後,7名の教職員を車で吉海町まで送ることであった。

 全校の行事であるため,出欠席の確認には結構時間がかかったが,連絡を終えて,9時過ぎに車で吉海町へ向かうことができた。

 吉海町に到着すると,次のわたしの仕事は,吉海町近辺の道路を巡回することであった。ハザードランプを点滅させながら,徐行をし,歩行している生徒の様子を観察していたが,黄色の紙を掲げて援助を求めたのは,わたしの巡回範囲では,一人のみであった。

 疲れた様子の生徒もいたが,どの顔を見ても,頑張ろうという意気込みを感じることができた。

 道中,グループの友人どうしで,どのような会話が交わされたかは,想像の域を出ないが,きっと一生の宝物になるような思い出ができたに違いない。このような思い出は教室の中では作りにくい。行事教育の持つ素晴らしさは,この思い出作りが比較的容易にできることである。それは,教室での学習が主に知性の教育であり,行事教育が「感動の教育」であるからであろう。

 全人教育とは,生徒たちを,「真,善,美,聖,健,富」が調和をした人間に育てることを言うようだが,行事教育は果たして,この六つのどれを鍛えることになるのであろうか。  
      つづく


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