愛光学園

60周年特別企画ページはこちら

WWW を検索 愛光学園サイト内を検索

チュータのひとりごと

2003年6月アーカイブ

教務のひとりごと(98)

|
写真を撮る先生(1)

 先日,寮の学習時間の最初の15分間に流されるNHKの「新基礎英語2」の指導に向かうために,帰宅の用意をして,事務室前の廊下に出た。その時,中1の廊下に人影が見えた。少し遅い時間帯であったので,一声かけようと玄関で待っていた。すると数名の中1女子生徒が急ぎ足で近づいてきた。

 早く下校するように促し,玄関を出たところで,これから寮へ行くところだと,その生徒たちに話した。すると,生徒の一人が,わたしが寮の教員(寮務部)であるかどうかを尋ねた。

 寮務部の教員ではないが,今から英語放送の指導に行くのだと答えると,びっくりした表情で,「先生は英語の先生?」と聞いてきた。

 この質問にはいささか驚いて,わたしのことを何の先生だと思っているのか,尋ねてみた。

 すると,生徒たちはまるでコーラスのように,一斉に声を揃えて,「写真の先生!」と返事をした。

 一緒に玄関を出たY先生が,この会話を聞いて,大笑いをしながら校門を出ていった。

 なるほど中1生の目には,わたしは写真を撮る先生にしか映らないのであろう。そう言えば,中1生の前に出るときは,いつもカメラを携えている。英語の教員だと言っても分からないのは当然である。

 そう言えば,今年担当している中2生が,初めてわたしの授業を受けたとき,「写真の先生」が,なぜ自分たちの英語を教えるのか,不思議そうな顔をしていたのを覚えている。

 それでも,全然授業を教えていない生徒から,「写真の先生!」ではあっても,覚えていてもらえるのは,「チュータ日誌」のおかげである。その点でわたしは,ずいぶん得をしているような気がする。

     つづく

修学旅行(2)

 教師になって,生徒たちを引率して旅行に出かけることになって,さすがに楽しんでばかりはいられなくなった。

 旅が始まってから解散するまで,一時たりとも気を抜くことはできないからである。教員がよくバスや飛行機の中で眠っている姿を見て,生徒たちは不思議に思うようであるが,張り詰めた気持ちを少しゆるめることができるのは,乗り物に乗っている時しかないと言えば,よく理解してもらえるだろう。

 点呼,夜のミーティング,宿舎での巡回,体調をくずした生徒の世話など,決まった仕事や突然生じる仕事を次から次へとこなしていかなければならない。教員の就寝が夜の2時,3時になることは珍しいことではない。ある程度,引率教員のチームワークで乗り切ることができるのであるが,3日,4日と続くとだんだんボディー・ブローのようにきいてくる。

 しかし,その忙しい中でも,教員が旅を楽しもうという気持ちを持っていることが大切であるとわたしは思う。教員のそのような気持ちが,生徒にも伝わり,旅行の雰囲気がとてもさわやかなものになると思うからである。

 旅行で最も気になるのが旅行期間中の天気である。わたしの父親が次のように言ったことがわたしの記憶に残っている。それは,「不平不満の多い人が事を起こそうとすると,好ましくない天候の中に入ってしまうことが多い。自分の周りで起こることを結構なことだと喜んでいる人が行事に参加すると,不思議に結構な天気をお与えいただける。」というようなことであった。

 学校では数多くの行事活動が行われるが,教務の立場で,その都度天気のことを心配しながら,いつもこの言葉を思い出している。

 最近,少し雨を心配するケースが増えてきたように思える。わたしの父親の言葉について,科学的に根拠はないにしても,自分の仕事に対する姿勢を見つめなおすようにという天からのアドバイスではないかと受け止めている。

 行事における天気は雨が降るか降らないかのどちらかである。曇りとか快晴とかは関係ない。従ってどちらかと言えば松山では,雨が降る日数のほうが,降らない日数よりも少ないと言えるのではないか。願わくば,その少ない降雨日に行事日があたらないことを祈って,今回の「ひとりごと」を締めくくりたい。

修学旅行(1)

 木曜日に高2生が修学旅行で北海道へ出発した。

 この時期,北海道はさわやかな天気が続くということが,目的地に選定された理由の一つであったと記憶しているが,47期の生徒たちが「楽しくさわやかな旅」を続けてほしいと願っている。

 自分の小・中・高時代の修学旅行を思い出してみようと昔の写真を取り出してみた。わたしが通学した由良小学校は興居島(松山観光港の沖合に浮かぶ当時人口5,000人の島)にあり,全校児童500名であった。島には小学校が2校あり,中学生になると,この2校の全員が島の中央部にある興居島中学へ通学した。

 小学校の修学旅行は別府温泉へ船で出かけた。覚えていることは「地獄めぐり」で,さまざまな「地獄」を見て,初めて見る自然の不思議に驚きを禁じえなかった。世の中には不可思議な場所があるということをこの時初めて経験したように思う。

 中学校の修学旅行は京都,奈良方面であった。このときは,土産物屋の主人に誤ってお釣りを少なく渡され,後で申し出たが,受け付けてもらえなかったことを覚えている。信用してもらえなかったのが残念でならなかった。大人に対して不信感を持った最初の出来事であったような気がする。

就寝後,みんなで枕投げをやって,翌日起きてみるとふすまなどが破れ,先生方から大目玉をくらったことも覚えている。

 また,いたずら好きがいて,寝ている者の手足や,腹部に絵の具のようなもので落書き(?)をした。わたしもいたずら書きをされた一人であったが,みんなで笑い合って済ませた。

 高校の修学旅行は関東方面で,地理や歴史で習い覚えた地名が実際にどんどん目の前に現れてくることに,新鮮な感動を覚えたものである。    
   つづく
わたしが東大に合格させた(?)たった一人の生徒(3)

 彼の父親が後日手紙で知らせてくれて分かったのであるが,1日目の試験が終わった時に,彼は,「今日の試験で東大のレベルの高さがよく分かった。もう明日の試験は受けたくない。帰ろう。」と父親に告げた。父親はそれを聞いて,「チュータ先生と最後まで頑張ると約束したじゃないか。最後まで受けて帰ろう。」と彼を励ましたそうである。彼もその父親の言葉を聞いて考え直し,とにかく試験だけは受けて帰ることに決めた。

 このような状況であったので,彼も彼の父親も,合格などということは全然考えていなかったようである。しかし,わたしは,上記のような状況については全く知らされていなかったせいもあるが,彼が合格すると信じていた。

 そして,合格発表の日,彼は興奮した声で,「先生,合格しました。」と電話で学校に報告してきた。わたしは,「あれだけ慶応,慶応と言ったのだから,慶応にするか。」と聞いたところ,「いや,もちろん東大です。」という返事が返ってきた。

 それから数日して,彼の自宅から電話があり,合格の余韻に浸るN君と話をしていると,電話の向こうでかなりの人声や物音がしている。どうしたのかと尋ねると,彼が住む地域で初の東大合格者が出たということで,お祝いの宴会を開いているということであった。ご両親の喜んでいる姿が目に浮かび,クラス担任でなければ味わえない喜びを与えてくれた彼と彼の両親に感謝したい気持ちでいっぱいになった。

 タイトルにある通り,確かに,わたしが彼に東大を受験することを勧めなければ,彼は東大を受験することはなかったであろう。しかし,彼が合格したのは愛光の6年間で十分に実力をつけていたからである。つまり,生徒たちは自分の実力で大学合格の栄冠を勝ち取るのであり,その手助けをするのが教員であると,わたしはいつも考えている。そして,その手助けの方法を生徒と一緒になって考えるのが教師の楽しみかもしれないと思ったものである。

   おわり

2013年1月

    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31    

アーカイブ

All Rights Reserved Copyright AIKOU educational institution