学園関係物故者追悼式
11月17日(土)の午後1時から「学園関係物故者追悼式」 が井原彰一神父様(ドミニコ修道会司祭,聖マルチン病院診療内科部長)をお迎えし,父母の会副会長,同窓会会長, ご遺族の皆様が参列し,全校生徒も参加して,おごそかな雰囲気の中で執り行われた。
司祭入場の後,学校長挨拶の場で,わたしは次のような挨拶をした。
創立から55年が経過しようとしています。本校の第1期生は現在67歳を迎えています。67歳と言えば, まだまだ若い年齢だと思うのですが,残念ながら同窓生のみならず,旧教職員,さらに, 学園に深く関係する方々でこの1年間にお亡くなりになられた方がいらっしゃいます。 ご逝去されたすべての学園関係の皆様のご冥福を願って, 4年目を迎える追悼式を今年もこのように盛大に行うことができることを感謝しています。
故人を追悼するということは,故人のご冥福をお祈りするだけではなく,故人がこの世で歩んだ足跡や, この世に残してくださった業績に対して,深い敬慕の念を示すことであるとわたくしは考えています。その敬慕の念こそが, 愛光文化の伝承となると信じるからであります。
また,この世の中に生かされ,生きているわれわれが, 扉を開いて新しい世界に向かってチャレンジする決意を故人に対して表明し,故人の御霊(みたま)に喜んでいただく場が, この追悼式ではないかと述べて始めのことばといたします。
わたしはこの挨拶の最後の部分で,「この世の中に生かされ,生きている」という表現を使ったが, その思いはこうである。
人間は寿命がくれば,どんな人でもこの世の中に別れを告げなければならない。よく考えてみると, わたしたちが勝手気ままに使えるように思っている自分の身体は,自分の持ち物であるようで,実際には自分のものではない。 この世から去れば,身体は自然にもどさなければならない。このように考えると, 人間の身体は何か偉大なる存在から借り受けたものであるように思えてくるのである。身体を借りてこの地球上に存在していると考えると, この世の中に生かされているという考え方が理解できる。これに対して,人間の心は自分の経験の範囲内で思うように使うことができる。 すると,生きているという能動的な考えが可能であるように思われる。
「生かされ,生きている」と表現したのには,上記のような思いがあったのである。
お知らせ
今年の「チュータのひとりごと」は今回が最終です。新年は1月13日(日)から開始いたします。
学校説明会(2)
小学生の皆さんに分かりやすく言うと,愛光は勉学とキリストの愛の精神を大切にする学校だということです。
勉学を大切にしているというと,勉強ばかりする学校というイメージが生じるかもしれませんので, それだけではないことをお話しておきましょう。
愛光は厳しさと楽しさの共存を追及しています。
楽しさというと誤解があるかもしれませんが,楽しさと言うのは学校生活が充実していることだとわたしは考えています。
学校生活の充実のために,部活動や行事が準備されているのです。本校には,12の運動部と11の文化部があり, いずれも活発な活動を行っています。門屋(かどや)方典(みちのり)2代校長の時に, 文武両道の打ち出しがあり,その後もその精神は受け継がれていて,中学1年で約90%,中2,中3で約80%,高校1年で約60%, 高校2年で約55%の生徒が部活動に参加し,活動しています。
この部活動は高2で終了し,高3は受験に向けて頑張ってもらいます。
こうして,本校で修得した知性と,徳性を生かして,将来,社会のよきリーダーになってほしいというのが学校の願いです。 アインシュタインは「人間は他人のために存在する。」と言っていますが,まさしくその言葉どおりに, その言葉そのままに生きる社会のよきリーダーを育てたいという夢が本校にはあるのです。
さて,先ほど理事長が挨拶の中で述べましたように,学校の宝は,生徒,そして教職員です。全国各地から同じ志を持ち,かつ, 様々な価値観を持った生徒たちが集まり,その中で自分を磨けるということは,実に素晴らしい人生経験だと思います。
また,ユニークな個性を持った,厳しくかつ心優しい先生が大勢います。
ここで,一つのエピソードを紹介したが,その内容については後日紹介させてもらう。
そして,話の結びに,次のように述べてわたしの教育方針の話を終えた。
厳しさと優しさを兼ね備えた先生方,そして,全国各地から集まった生徒たちとともに,愛光で学び, 素晴らしい思い出作りをしようではありませんか。「教育とは卒業後の思い出なり」,ここにお集まりの生徒の皆さん, そしてご父母の皆さん方と,ここ愛光の丘で共に思い出づくりができることを願ってやみません。
おわり
学校説明会(1)
関東,近畿,中国,九州, 四国の各地で実施する入試説明会の総集編ともいうべき愛光学園学校説明会が11月10日(土)に本校を会場にして行われた。午前中,体育館で全体会を行い,先ず,理事長, 学校長が教育方針を話した。その後,各班に分かれて授業参観や寮見学,さらに,午後から中学受験と高校受験に分かれ, 本校の学校生活や入試科目について,担当者からの話があった。
夏のオープンスクールと異なるところは,実際の生徒の授業を参観できることと, 各教科の担当者から入試の出題方針について聞けることである。
理事長の心温まる歓迎のことばと愛光の教育についてのお話の後,本校の教育方針について, わたしは15分間ほど話をさせていただいた。
夏のオープンスクールの時にも,挨拶をしているので,その際の教育方針の話と重なるかと思ったが, 教育方針の話が,その都度異なっているのもどうかと思い,同様の話をしたうえで,何か別の話を付け足してみようと考えた。
受験希望の生徒たちとその保護者に話したことについて紹介しよう。
本日は本校の学校説明会にわざわざ足をお運びいただきまして,誠にありがとうございました。 わたしは校長の中村と申します。
本校のホームページをご覧になっていただきますと,現在3名の教員が更新を担当している「チュータ日誌」, さらに,今年の9月から再開し,毎週日曜日に更新をしております「チュータのひとりごと」に気付いていただけたことと思います。この 「チュータ」というのは,わたしのニックネームでありまして,38年前にある生徒がつけたものが現在まで続いているのです。 わたしとしては,大変素晴らしいニックネームをもらったと思っています。英単語の「tutor」(個人指導教員)だと勘違いされている方もいますが,ネズミの「チュータ」 であります。本日,わたしの姿を見て,なるほどネズミの「チュータ」だと納得された方も多いのではないかと想像しております。
(この話をした時に,会場のあちこちでにっこりしながらうなずいている生徒や保護者の姿が目に留まった。)
さて,本校の教育は,教育的な言葉で言えば,「世界的教養人」を育成すること, カトリック的な言葉で言いますと,「愛と光の使徒」を育成することであります。
これは田中忠夫初代校長が,雪の降る夜に一晩で書き上げたと言われている「われらの信条」 に記されている言葉です。
この「われらの信条」の冒頭の部分で, 「われらは世界的教養人としての深い知性と高い徳性を磨かんとする学徒の集まりである。」また最後の部分で, 「愛と光の使徒たらんこと,これがわれらの信条である。」という言葉で結んでいます。
つづく
同窓会(2)
途中,田中忠夫初代校長が起草した「われらの信条」を全員で朗読できるようにスライドを用意した。
同窓会当日,五百木誠也前校長に続いて壇上に立った。まず,パソコンに自分のパスワードを入れるのだが, 肝心のパスワードがどうしても入らない。数学科の竹内聡教諭に壇上まで来てもらって事なきを得たが, このような場所での思わぬハップニングに本当に焦ってしまった。
自己紹介でニックネームがチュータであることから始め, パワーポイントを用いて愛光の教育方針について説明を始めた。
しばらくして,会場に目を向けると,200名を超える同窓生が,にこにこしながらわたしの説明を聞いてくれていた。 「われらの信条」の部分では,こちらからお願いをしたこともあるが,全員が声を出して朗読してくれた。その朗読の声を聞いて, わたしは,同窓生に励ましてもらっているような気がしたものである。
田中忠夫初代校長は「建学」,門屋方典2代校長は「文武両道」,五百木誠也3代校長は「男女共学」と, 歴代校長のご功績を受け継ぎながら,扉を開いて新たなる挑戦をする勇気を同窓生からもらったような気持ちになった。
そして,わたしは次のように述べ,同窓会の挨拶を締めくくった。
「わたくしは,親と子と先生を教育の三位一体と呼んでいますが,子どもの教育をサポートする三位一体は, 親と同窓生と先生だと考えています。 同窓会の立場で愛光の教育に深いご理解と温かいご支援をいただけるようお願いして挨拶といたします。」
おわり
同窓会(1)
10月27日(土)に本校の同窓会が行われ,招待を受けた。校長に就任後, 初めての同窓会ということで,出席させていただくことにした。
プログラムの冒頭の部分に新旧の学校長挨拶が組み込まれていて, わたしに与えられた時間は15分間であった。
この挨拶の依頼が同窓会担当教諭からあって以来,同窓会では何を題材に話しをすればよいのかということが, 頭の片隅から離れなかったのである。
10月はちょうど入試説明会の実施月にあたっており,毎週,土, 日に全国各地に出張して説明会が行われる。今年度のわたしの担当地域は北九州,福岡,大阪で, 説明会の冒頭に教育方針について説明するのが主な役目であった。
教育方針をただ口頭で話すだけでは,聞いている出席者に分かりにくいのではないかと思い, わたしはパワーポイントを利用してスライドで要所,要所の説明を行うことにしている。大阪での説明会を終えたとき, 同窓会の挨拶のことを思い出し,この説明会で使ったスライドを作り変えて, 同窓生に紹介したら喜んでもらえるのではないかと思いついた。同窓会は大阪の入試説明から6日後であったので,十分に時間はあった。
自分たちが卒業した学校の教育方針が同窓生にどのように受け止められるのか少し不安はあったが, さっそくスライド作りにとりかかった。
つづく
文化祭・体育大会慰労会
毎年,文化祭,体育大会が終わった後,教職員の慰労会を行うことにしている。
今年も市内のホテルであったが,その際,恒例として最初に理事長が挨拶し, 続いて学校長が挨拶することになっている。
この挨拶でわたしは次のような話をした。
「皆さん,文化祭,体育大会の2大行事,本当にご苦労様でした。体育大会の挨拶でも述べましたように, 行事は「感動の教育」を行う場です。生徒が味わう感動や感激が大きいか,小さいかは,準備作業にかかっているような気がします。
この準備作業には,当然,教員がかかわらなければなりません。教員がかかわるからこそ,行事教育, 感動の教育と言える,つまり,教育という言葉を用いることができるのだと思うのです。
今年の文化祭,また体育大会,いずれも,先生方が目に見えるところ,また目に見えないところで, 生徒と様々なかかわりを持っていただき,感謝しています。
先生方が生徒とかかわりを持っていただいたことは,生徒が一番よく分かっていることと思います。
行事だけではなく,授業や学校のあらゆる活動において, 教員の指導やかかわりを生徒がどのように受け止めているのか,どのように感じ取っているのか,この点を理解しておくことが, われわれの教育において非常に重要なことだと強く感じています。
今後も先生方が生徒とのかかわりを深めていただくことをお願いして,簡単ではありますが, 開会の挨拶といたします。」
文化祭は生徒部の教員を中心に,体育大会は体育科の教員を中心に実施される行事であるが, 細部では多くの教員が関わり,運営されている。このように考えると,二つとも,本校の教職員と生徒との総合力, つまり学校力が試される行事と言えよう。
人間力(2)
以前,「ひとりごと」でも述べたことであるが,面談などを通じて生徒と話しをしているときに, こちらの思いがそのまま伝わったという表情を生徒が見せることがある。この表情になる瞬間を,それぞれの生徒の「感動点」 だとわたしは考えている。この感動点を突き破ると,生徒は動き出すという経験を何度か味わった。もちろん, 個々の生徒によって感動点のレベルが違うので,どこまでいけば動き出すのかは分からないが,間違いなく生徒が動きはじめる瞬間がある。 そこまで根気強く,生徒を導くことができるかどうか,これはまさしく教師や親の人間力にかかっている。
話を元にもどして,人が動くのは感動したときであると直感的に思ったのは,上記の経験があったからだと思う。 このように考えてくると人を感動させることのできる人が人間力のある人となる。
人を感動させる人物には,どのような資質が必要とされるのであろうか。あたり前のことをあたり前にやっていては, 人の心を動かすことはできない。自分の都合は横において,相手に合わせて心を遣う。つまり他人を心から思いやることのできる 「まことのこころ」,つまり,「誠実さ」が必要不可欠な資質であると思われる。
このように考えてくると,結局,人間力とは誠実さということになると,自分の頭の中で整理できたような気がした。
しかし,この人間力という言葉を最初に使った人は, なぜこのような分かりにくい言葉を使わなければならなかったのだろうか。
誠実さに欠ける人間が増えてきたと感じているからなのか,あるいは, 誠実さだけでは言い表せないもっと強い意味を伝えようとしているからなのか,よくは分からないが, この人間力という言葉が市民権を持つかどうかは, この言葉が持つ力がわたしたちを感動させるかどうかにかかっているとわたしは考えている。
おわり
人間力(1)
今年の体育大会のテーマは「人間力」であった。この人間力という言葉を初めて耳にしたとき, どのように捉えたらよいのか迷ってしまった。どこかで聞いた覚えはあるのだが,自分の頭の中の辞書には, この人間力という言葉がなかったのである。
手元にある三省堂の国語辞典は,「人間」を「他の人間と共になんらかのかかわりを持ちながら社会を構成し, なにほどかの寄与をすることが期待されるものとしての人」と定義している。
では,「力」は辞書ではどのように定義されているのであろうか。同じ辞書で調べてみると,「人や物や社会を, 直接作用して動かしたり変化させたりする根源的なもの」とあった。
「人間」と「力」の定義を合わせてみると,「人間力」とは, 「他の人間と共になんらかのかかわりを持ちながら社会を構成し,なにほどかの寄与をすることが期待されるものとしての人を, 直接作用して動かしたり変化させたりする根源的なもの」と定義づけることができる。
そこで,わたしは体育大会で,「人間力」を,話す自分にも,生徒たちにも分かりやすいようにとの思いから, 「人を動かす力」という言い方をした。
しかし,「人を動かす力」と言っても,聞く側はまだ漠然としていて分かりにくいと思ったので, 人が動くのはどのようなときかと考えてみた。わたしの心に浮かんだのは,教員と生徒とのかかわりにおいて,生徒が心を動かすときとは, 生徒が教員の言動に心から感動したときではないかということであった。
つづく
第55回体育大会(3)
競技が終わり表彰式を終えた後,大会の講評を行った。その講評を次のように述べた。
人間力のある,つまり人を感動させる演技,競技を見せてもらいました。
学校には,文化祭・体育大会をはじめ,様々な行事がありますが,行事教育は感動の教育であります。
今日は,行事の持つ行事力と皆さんの持つ人間力が,いっしょになって, さらに大きな感動が生まれたのだと思います。
さて,高3生のみなさん,愛光生活最後の体育大会,燃えましたか。 燃え尽きて灰になってしまったという言葉を聞きましたが,まだ灰になってはいけません。明日から燃えなければならないのは,受験です。 受験は今日の体育大会と同様,団体競技と言えます。織田学年主任を中心にティームを組み, 素晴らしいティームワークでもって受験に臨むことを期待しています。
ご父母の皆様,本日は終日,ご声援をありがとうございました。親と子と先生, これを教育の三位一体と言いますが,今後もご子女の教育のためにご尽力いただけることをお願いいたしまして,講評といたします。
ここに記してはいないが,実際の講評では, 「男女共学開始の50期生が入学した年の第50回体育大会の最初の競技は中1女子100メートル走であった。 8人の女子生徒が初めて本校のグラウンドを駆け抜けた。その日,わたしはチュータ日誌を担当していたこともあって, 1日中カメラを持って走りまわった。最初の種目,女子100メートル走のスタート時に, 震えながらカメラのシャッターボタンを押したことを今でもはっきりと覚えている。」ということを話した。
この話に触れたとき,思わずその時に感動したことを思い出し,涙が出てきてしまった。声が詰まったので, しばらく話を止めた。歳のせいか,涙もろくなってしまったようである。
今年の体育大会の感動は,この5年前の感動と等しい,いやそれを超えていた。 高3生をはじめとする生徒たちの素晴らしい人間力に感謝し,拍手をおくりたい。
おわり
第55回体育大会(2)
予定を1日延期し,9月18日(火)に体育大会を実施した。わたしは開会式で次のような挨拶をした。
今年の体育大会のテーマ「人間力」をもう少し分かりやすく言うと,「人を動かす力」だとわたしは思います。 それでは人が動くのは,どのようなときでしょうか。
人が動くのは心から感動したときだと思います。ということは,人を感動させることのできる人が, 人間力のある人だということになります。
それでは,今日の体育大会で人間力のある人,つまり人を感動させる人とはどのような人でしょうか。それは, 自分のため,クラスのため,また学年のためベストを尽くして真剣にプレイする人です。そのような真剣なプレイが今日一日, いたることころで目にとまることを願っています。
ご父母の皆様,朝早くからご苦労様です。天候のこととは言え,一日延期をしましたこと,お詫びいたします。
今日は生徒たちの人間力あふれる真剣なプレイに存分の拍手を送っていただきたいと思います。
生徒の皆さん,皆さんが目指すは世界的教養人,教養人らしい真剣なプレイを期待して簡単ではありますが, 開会の挨拶といたします。
開会式を終え,準備体操が終わると,いよいよプログラムの順に,競技や演技が始まった。
どの競技でも真剣に走り,プレイし,そして,それを懸命に応援する生徒の姿を見て, 男女共学完成の年にふさわしい体育大会だと心から感動した。正に生徒たちの人間力を目の当たりにした。
つづく